ynkby's blog

正しく考えるというのは難しい

体罰問題紛糾の原因 体罰の定義とその無用性

体罰の是非が問われているが、「体罰」という言葉の理解の相違が無用の混乱を招く一因になっているので、この言葉の定義について考えたい。結論は、体罰の是非を検討するには、むしろこの言葉は使わない方がよいというものだ。

まず、ここでいう体罰を、教師が学生に対して行う有形力の行使に限定しよう。有形力とは、殴ったりしばいたり、あるいは、身体を押さえこむものとする。したがって、長時間立たせたり、正座させたりすること自体は、有形力の行使ではない。これらも体罰として語られるかもしれないが、ここでは扱わない。もちろん、正座させるために身体を抑え込めば、それは有形力の行使となる。

「すべての有形力行使は体罰である」とすれば話は簡単である。しかし、例えば、「軽く平手ではたく程度のものは体罰ではない」という場合には、有形力行使には、体罰とそうでないものとがあることが前提されている。このような場合には、何らかの形で有形力行使を分類し、特定の類型の有形力行使を体罰として定義することになる。

分類の仕方はいくつもある。例えば、有形力行使の形態あるいは程度という点から、有形力行使を分類できる。拳で殴るのは体罰だが、平手打ちは指導であるというように。あるいは、平手打ち3回までなら体罰だが、4回以上は暴行であるというように。

あるいは、有形力行使の目的によって分類し、特定の目的のための有形力行使を体罰とすることができる。例えば、悪いことをした時に今後同じことをしないよう動機付けるための有形力行使を体罰とし、それ以外は暴行とすることができる。他にも、悪いことをした時に、悪いことをしたという一種の負債を消す、けじめをつける目的、あるいは、気の抜けた練習をしている部員に喝をいれる目的、あるいは、けんかの殴り合いを止める目的、あるいは、教師が個人的な鬱憤を晴らす目的などいくらでも考えられる。

また、有形力行使の結果から分類することもできる。例えば、教師と学生との信頼関係を維持・醸成させるものが体罰で、そうでないものは暴行とするものである。

以上の有形力行使の分類は、事実面からの分類としておこう。特定の事実的有様に該当すれば体罰とするというものである。これに対して、評価面からの分類を考えることができる。つまり、許される有形力行使か否かの評価に基づかせた分類である。

「すべての有形力の行使は許されない」とするなら、定義上、許される体罰はない。しかし、「許される有形力行使もあれば、許されない有形力行使もある」とするなら、許される有形力行使を体罰としたり、逆に、許されない有形力行使の方を体罰とすることができる。

例えば、「もはや体罰ではなく暴行であり許されない」という場合、有形力行使を、許されるものと許されないものとに分け、前者を体罰としている。逆も可能である。「体罰は許されないが、軽く平手ではたく程度のものは体罰でなく許される」という時には、許されない有形力行使の方を体罰としている。

もちろん、許されるか否かに基づかせる必要はない。その場合は、「許される体罰もあれば、許されない体罰もある」ということになる。

以上、事実面からの検討と評価面からの検討を考慮すれば、体罰の定義の選択肢は次のように考えることができる。

体罰とは、
①すべての有形力行使であり、それは許されないものである
②すべての有形力行使であり、それは許されるものである
③すべての有形力行使であり、それには許されるものと許されないものがある
④特定態様の有形力行使であり、それは許されないものである
⑤特定態様の有形力行使であり、それは許されるものである。
⑥特定態様の有形力行使であり、それには許されるものと許されないものがある
⑦有形力行使の態様に関わりなく、許されない有形力行使である
⑧有形力行使の態様に関わりなく、許される有形力行使である

問題は、どの定義が普遍的に正しいかではない。言葉の定義は思考・議論の目的に資するようにその都度設定すべきものだ。かみ合った議論をするためには、どのような定義を採用しているのかを明示し、理解のズレがないようにしなければならない。

ところで、どのような有形力行使が許されるのかを問わねばならないのであれば、体罰の定義にこだわっても、その問題の解決に資することはない。

体罰をすべての有形力行使とするなら(①~③)体罰の概念は不要である。また、特定態様の有形力行使を体罰と定義しても(④、⑤、⑥)その有形力行使がなぜ許されるのか(あるいは許されないのか)の問題は残されたままだ。加えて、体罰でない有形力行使が許されるのか否かの問題も残る。最後に、許されるか否かだけに基づかせた定義(⑦、⑧)は、許されるか否かの判断自体が問われているときには意味をなさない。

体罰の是非が問われているが、むしろ、どのような有形力行使が許されるのかが問われているのではないか。だとすれば、「体罰」は余計である。