ynkby's blog

正しく考えるというのは難しい

差別語の何に不快になるのか 『差別表現の検証』

差別表現の検証―マスメディアの現場から

差別表現の検証―マスメディアの現場から

 

本書は、メディアの差別表現への対応状況についてどうあるべきか、そして、個々の表現についての著者の見解を記している。事前に出版関係者にアンケート調査を行っている。「部落」などの語が入った例文を挙げ、問題あるかどうかを尋ねるものだ。この調査結果をもとに書かれたものだ。

 

著者は、「差別語」よりも「差別表現」という表現を好む。というのも、差別語として認められた語を機械的に排除する動きが生じている一方で、その種の語を排除しさえすればそれでよしとしてしまう傾向が生じているからだ。

 

一般論として、使える語の多い方が表現が豊かになるとすれば、差別的な意味合いを持って使われていないのに、一律に特定の語の使用を禁止してしまうのは、表現にとってマイナスだ。このようなことから、例えば「部落」を機械的に排除する傾向に警鐘をならす。

 

それに、差別語とされる語を一律に排除しても問題は解決しない。例えば、「屠殺場」という語を「食肉処理工場」に替えたとしても、それを残酷さ残忍さの例えで使ったりすることが問題なのであって、そのことは「屠殺場」という語を使っていないからといって解消されはしない。語ではなく、意味内容を考えよということだ。

 

しかし、そう言いながら、意味内容とは関係なしに、使うべきでないとする語もあるようだ。朝鮮関連の語だ。子どもの頃にチョーセンと言ってはやし立てたことがあったと述べているが、この経験もあってか著者はこれ関連の語には非常に厳しい態度で当たる。「鮮人」、「北鮮」、「京城」はだめ。「チョン」もだめ。「チョンガー」も「バカチョン」もだめだ。在日コリアン人権協会幹部の、チョンのつく言葉が嫌なのだという発言を紹介し、これに配慮すべきとする。ここで問題になっているのは、意味内容ではない。「チョン」という音声である。

 

そもそも、差別語・差別表現は、なぜ使ってはいけないのか。一つには、言われた人が不快だからだ。では、その不快感はどのように生じるのか。意味を解釈し侮辱されたと思うことから生じる場合もあるが、チョンの事例が示しているのは、音声から不快感が生じることもあるということだ。音声から連想される事柄に不快感を感じるのかもしれないし、条件反射的に不快感が生じるのかもしれない。ともかく、著者が強調した意味内容とは別に、語の音声も問題なのだ。

 

音声によって不快になるとすれば、文字の形に不快感を覚える人もいるかもしれない。「障害者」が「障がい者」になったりするのは、これにあたるのかもしれない。文字の形から連想される事柄に不快感を抱くかもしれないし、条件反射的に不快感が生じるかもしれない。本書でも「屠場」ではなく「と場」と表記されていたが、これもそういうことかもしれない。

 

差別語・差別表現の何から不快感が生じるのか。上に述べたことが正しければ、それは、意味内容と音声と文字の形である。差別的な意味内容から不快にさせることと、音声から不快にさせることとでは、許容度が異なるかもしれない。とすると、規制を考えるときは、この点についても考慮に入れて判断すべきということになろう。