- 作者: 稲盛和夫
- 出版社/メーカー: PHP研究所
- 発売日: 2010/08/06
- メディア: Kindle版
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稲盛和夫の処女作だ。初版は89年だが、言っている中身は現在インタヴューとかに応えているものと変わらない。
私利私欲からのものでは成功は長続きしない。自分のためにではなく人類社会のためにという、私心の無い純粋な願望を持つことが望ましい。しかし、人類にためにというのは人間にはさすがに無理なので、間をとって、自分のためにを集団のためににすり替える。
それに経営者は利益を追求しないといけないので、自由競争原理のもと堂々と商いをして得た利益は正当であるとする。いけないのは、人々の利益に反する卑劣な手段で一攫千金を夢見ることなのだ。
そして、私心なかりしか、と自問する。自分勝手、自己中心的な考えをしてないかをチェックする。あるいは、動機善なりや、と問う。善とは普遍的に良いことで自他ともに受け入れられる動機のことらしい。
さらには、会社の利益は経営者のものではないという。会社は株主のものではないということは聞いたことがあるが、経営者のものですらない。ちゃんと税金を納めて、世のためになるようにせよということらしい。自社に不利な決定をしないと、社会が不幸になってしまう。自己犠牲の精神が必要らしい。
ところで、宋文洲氏が私心について述べている。経営の神様どもは私心を捨てろというが、そんなのありえない。大きな私心は結果として世のためになることが多いのだ。と。
宋氏の意図がなんなのかはともかく、言葉の意味という点から考えてみる。
私心とはなんだろう。
まず、自分の得を図ること、これをAとしよう。
Aは、他人にとってどうなのかという観点から、他人にとって損になるものと、損にならないものに分けることができる。つまり、自分は得し他人は損することを図ることと、自分は得し他人も損しないことを図ることである(損しないものの中には、得するものもあれば、得にも損にもならないものもあろう)。ここで前者をA-1とし、後者をA-2としよう。
Aをしないためには、自分の得を図ってはならない。他方、A-1をしないためには、同じく自分の得を図らないか、自分の得を図っても他人が損しなければよい(つまり、AをしないかA-2をするかだ)。
さて、私心とは、Aなのか、A-1なのか、どっちだろう。A-1なら、自分の得を図っても私心はないといえる場合がある。
しかし、どっちかは別に決まっていない。どっちでも使える。あるいは、決まっているという人もいるかもしれない。それなら、例えば、Aを私心と呼ぶなら、A-1はなんと呼べばいいのだろう。逆にA-1が私心なのだとしたら、Aはなんと呼ぶのだろう。
言葉には限界がある。AとA-1をうまく区別できる二つの言葉は現状の日本語にはない。区別したいなら、広義の私心、狭義の私心とかいっていちいち言葉を作って定義していくしかない。大事なのは、言葉に振り回されないことだ。
もちろん、経営の神様が言いたかったことは、広義とか狭義とかではなく、人間なのだからついつい暴利をむさぼって信用を落としがちになるので、自分の得を図るな、と言うくらいでちょうどいいということなのかもしれない。あるいは、本当は私利私欲の塊なのだが、かっこつけるために私心を捨てろと嘘をついているだけなのかもしれない。が、こういったことはまた別の話。