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ynkby's blog

正しく考えるというのは難しい

なぜあそびが大事といくら言っても説得力がないのか 『古事記の宇宙』

 

あそびについての評価は分かれている。まじめだけではだめで、潜在力を最大限発揮するには、例えばフロー状態に入るには、まるであそんでいるかのように仕事に打ち込んでいなければならないとか言われたりする。こういうことが言われるということは、あそんでいてはいかん、まじめにやれ、という風潮がベースにあるということだ。

 

潜在能力を発揮させることは非常に大事だと思うが、あそびも大事とか言ってるだけではまったく効果はないと思う。なぜか。鍵はあそびとまじめの意味にある。

 

本書は、古事記の記載から、当時の日本人の感覚をあぶりだす。神様への関心が強い。山は神様が降りてくる所だし、鳥は神様のいる天と地上を行き来するし、などなど、あらゆるところに神をみる。

 

神様は自分の周りだけではない。自分自身が、お祭りで踊りまくって、神がかりになったりする。自分が神様のようになるのだ。それは、アマテラスが岩戸に隠れた時、アマテラスを誘い出すためにお祭り騒ぎを起こすシーンから見て取ることができる。アメノウズメが神がかりになりほとんど裸になって踊りまくりすごい盛り上がるのだ。巫女とかが裸で踊るというのは沙石集とかにも書いてあるし、また最近までそういう風習が残っていたらしいから、古事記の時代には結構普通のことで、それがもとになってこの神話ができたのだろう。

 

で、その時、アメノウズメにアマテラスは問うた。なにとかもアメノウズメはあそびし、と。つまり、なんで踊ってるのだと。ポイントは、踊ることを、あそぶと表現している点だ。あそぶとは、アメノウズメの様に、日常の規範を乗り越えた非日常空間での振る舞いを指す。これが「あそび」がもともと表していたことだという。それに対して、日常は、まじめにやらないといけない。つまり、日常はまじめ、非日常はあそび、ということだ。

 

とすると、あそびを否定的に捉える風潮があったりするのは、あそびとまじめを対のものとして捉えてきたからにちがいない。日常と非日常を強く峻別する志向があって、日常を非日常化するのを嫌ったのだ。そりゃお祭りばかりやってたら暮らしていけない。

 

あるいは、まじめでないことが、あそびと捉えられるようになったからだ。もちろん、まじめでないことはふまじめだ。だから、あそびはふまじめだとする傾向がたぶん生まれたのだ。あそびを否定するかのような傾向には、あそび=ふまじめという発想があるにちがいない。

 

だとすると、あそびも大事だとか言っても意味がない。お祭りを始めろとか、ふまじめになれと言っているも同然だからだ。まず、あそびとふまじめを同一視してしまう感覚を取り除かなければならない。そして、お祭り騒ぎを仕事に取り入れろとか言ってるわけではないことを周知させ、あそびはむしろ神がかりとしてイメージさせるのだ。そうすることによって、お祭りを始めるのではなく、日常のままでの神がかり、まじめな神がかりを観念できるようにするのだ。神がかり状態でまじめに仕事する。これがおそらく、あそびも大事を実現した状態にちがいない。