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正しく考えるというのは難しい

靖国信仰現状 『天神信仰』

 

天神信仰 POD版 (民衆宗教史叢書 第 4巻)

天神信仰 POD版 (民衆宗教史叢書 第 4巻)

 

 

本書は、大正期から昭和にかけて、菅原道真北野天満宮について書かれた、色んな人の論文を集めたものである。

 

道真が藤原時平に敗れ大宰府に飛ばされたのが901年で、903年にその地で死んだ。その後、疫病や旱魃が頻発し、大彗星まで現れるようになった。そして、道真を追いやった時平はじめ、関係者がどんどん死んだ。時平の子や孫にあたる皇太子も死んだ。そんな中、930年、清涼殿に落雷があり、またも関係者・藤原清貴が死んだ。そして、942年に北野の地に道真が祀られ始めることになる。最初は多治比文子という一庶民が小さなお社をつくったのだが、あっという間に大きくなり、987年には朝廷の祭典が開かれるまでになる。

 

北野の地は、別に道真とは縁もゆかりもない。なぜここに道真が祀られることになったのか。

 

この地では、道真が祀られる前から、天神様が信仰されていた。天神様とは火雷神のことで、雷様である。雷様は稲を実らせ豊作をもたらす神様で、雨乞いしたりしていた。土地の神様であった。さらに牛信仰もあった。牛も農業と関係があり、雨乞いの供物として牛をささげた。今も北野天満宮には牛が置いてある。

 

なお、牛信仰に関して、日本では祟りに関わるものとしても信じられてきた。牛を生贄にして祟りを除くという信仰だ。これによって雷様も祟りと関係するようになった。牛は祟りと関係するのだから、いっしょに信仰されている雷神も祟りに関係するのも当然だ。

 

道真の祟りでばたばた人が死んでいた時期に、清涼殿に落雷があり、道真左遷の関係者・清貴が死んだ。落雷ということは雷様の祟りなのだが、清貴が死んだということは、道真の祟りでもある。この落雷から、道真は雷様であるということが判明した。道真とは雷様、天神様だった。というわけで、北野の地に道真が祀られることになった。

 

その後、北野天満宮の信仰は色々に変化する。平安時代には、祟り信仰から、学問の神様になり、書や詩文の神様になった。鎌倉時代に入って、冤罪を救ってくれる絶対慈悲の神様になった。正直に祈れば天神様は冤罪を晴らしてくれる。

 

室町時代に入ると、禅宗の僧が融通無碍に伝説を作り上げた。道真は梅が好きという伝説はこの頃つくられた。道真といえば梅であり、北野天満宮も梅で有名だが、実際の道真はそれほど梅好きというわけでもなかったらしい。桜を詠んだ歌なんかも結構あるという。

 

さらには、道真が唐にわたって禅を受けてきたという話までつくられた。渡唐参禅という。この時代は、将軍義満は明の皇帝の生まれ変わりだとか、白楽天が日本に来てたとか、達磨大使が日本に来て聖徳太子に教えを授けたとか、自由奔放に物語がつくられた時代であった。

 

北野天満宮は、土着の豊穣神信仰から、道真の祟り信仰の施設となり、学問の神を祀っていることになり、冤罪を晴らしてくれる神を祀っていることになり、梅を大事に育てるようになった。信仰は人によって変遷するのである。

 

安倍さんが靖国に行った。靖国は北野神社のように土着の神がもともといたのではなく、明治政府のために戦死した兵隊を称えるためにつくられた。反逆した西郷隆盛は祀られていない。その後、A級戦犯が祀られてから大東亜戦争を称揚する神社であるという話が出てくる一方で、小泉は不戦の誓いと鎮魂のために参拝した。安倍さんも同じく、鎮魂のために参拝した。安倍さんは、鎮霊社に参ったとことを強調している。鎮霊社は、本殿に祀られていない世界中の戦死者を祀る。

 

戦死者を称えるのか、ファシズムを賛美するのか、明治政府万歳なのか、広く世界中の戦死者を慰霊するのか、どれが優勢になるのだろう。いずれにせよ今の靖国信仰は、色々な信仰者が衝突中である。どれかが勝つのかもしれないし、全部共存させる形に落ち着くのかもしれない。