ynkby's blog

正しく考えるというのは難しい

官僚主義思考

 申請書とか報告書とかの書類の作成で、無駄とも思える修正を要求されたりすることはないだろうか。なぜそんな修正が必要なんだ、これで十分わかるだろう、融通が効かん奴らだ、といった怒りがわいてくるかもしれない。しかし、そんなことを言っても、何も通じないだろう。聞く耳持たれない、話が通じない。なぜそうなるのか。それはものの考え方が異なっているから、つまり、官僚主義思考にある。

 官僚主義思考とは、次のようなものである。

  ①型・様式通りにすることを第一に考える。

  ②型通りにできなくても、なるたけ型に近づけた上で、総合的対応策を練る。

 たとえば、申請書とか報告書とかの書類を出さなければならない時、その書類には、書き方の様式が準備され、さらに、必要な添付書類なども規定されていたりる。官僚主義思考者は、設定された型にきちっと合わせることを第一に考える。よって、この型から外れている場合、型に合わせるよう修正を要求することになる。

 型からの逸脱が軽微で、修正しなくてもこれで十分ではないか、ということもあるだろうが、そういった事情は考慮されない。検討されるのは、修正が可能かどうかである。そして、修正ができると判断されれば、型に合わせてください、ということになる。たとえその修正が実際問題として無駄だとしても、さらには、その修正のためにえらく大きな害をこうむることになるとしてもである。あるいは、そもそもその型自体がおかしいじゃないのといえるような場合でもである。

 型どおりすることが難しいとなって初めて総合的にどう対処するかが検討されることになる。そのまま修正しなくてもトラブルは起きないと判断されれば、そのままでOKとなるだろうし、トラブルが起こりそうなら、そうならないような対応策が検討される。この段階では驚くほどのフレキシビリティが発揮されたりする。しかし、よい対応策が思いつかなかった場合、その書類は却下されることになる。ひょっとしたら、トラブルが起きいても知りませんよと確認したうえで受理することもあるかもしれないが。

 要は、官僚主義思考者は、型を追及する。だから、この発想に沿った形で意見しなければ、話は通じない。こんな修正意味ないじゃん、では通じない。官僚主義思考者にとって、そんなことはどうでもいいからだ。

 杓子定規で融通が効かないのかもしれない。しかし、型が、何かの目的に資するように設計されていて、その目的をより効率的に達成するためには少々杓子定規であってもそれに従った方が全体としてスムーズにいくということもあるかもしれない。部分最適より全体最適というやつである。分業・分担とか、大きな組織には欠かせない。

 ただ、そのためには、型がきちんと目的に資するようにできていないといけない。型が狂ってるとか、型に合わせるコストが高すぎて目的達成自体ができなくなるとかなると、どうしようもない。

 そのような場合に、官僚主義思考の弊害が現れる。特に、型に合わせることそのものが目的化してしまい、そもそも型が資するはずの目的の方が忘れ去られてしまっていると大変である。まるで修正がきかない。大企業病なんかにもこれがあるかもしれない。

 型自体の適否を審査すること、つまり、その型はどのような目的に資するために作られたのか、実際にその目的のために役に立っているか、といったことを考えるのは、官僚主義思考者には難しい。まして、その型が想定している目的は今追及すべきなのだろうか、なんてことになると、お手上げとなる。全体最適に資しているのか、それとも型合わせが自己目的化しているのか、どっちだろうか、と自問自答し続けなければならない。