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正しく考えるというのは難しい

「強敵」と書いて「とも」と読む文化

政敵を追い落とすと、祟りを食らうことがある。非業の死を遂げ、祟りを引き起こす魂を、平安時代あたりから怨霊と呼ぶようになった。

祟る怨霊をどうするか。名誉回復とか、お経の書写とかして、鎮魂する。菅原道真は怨霊となって、自分を大宰府に追いやった政敵を雷で撃ち殺し、世の中に災厄をもたらしたが、北野天満宮が作られたりして、ことは収まった。

道真の場合は人事の問題だが、時に政争は戦争に至る。こうなると、たくさんの人が死ぬ。そうすると、戦没者をまとめて鎮魂するようになる。そして、敵味方供養の歴史が形作られる。怨親平等の思想とか言われたりする。

称徳天皇は、藤原仲麻呂の乱の後、戦死者すべてを等しく供養するということをやっている。朱雀上皇は、将門や純友の乱の戦没者供養を行っている。源頼朝は、源平の戦乱の死者に対する鎮魂を行っている。

怨に対して、怨ではなく徳で報いれば、怨は消えるとか、あるいは、怨を転じて親となすことができる、とかいって鎮魂していた。

北条時宗は、元寇後の鎮魂に、「怨親悉平等」という言葉を使った。怨親平等とは、元々仏教語だが、転じて、敵も味方ももともと平等だから、平等に愛憐する心を持つべきだ、敵味方一視同仁、という意味だ。この辺からは、祟りや怨霊が怖いといった面より、供養、成仏、あるいは博愛主義的な様相が強くなっているようにみえる。

時代は下って、平和な江戸時代には、敵味方供養は姿を消す。が、明治に入り復活する。しかも、江戸時代に醸成された武士道の影響から、敵への敬意が加味されていた。

日露戦争後、旅順に戦没者慰霊の塔が建てられ慰霊祭が行われた。そこには、戦時中は仇敵だったが、戦後は友邦者となったのであり、ロシア人も国のための忠義を尽くした英霊であるのだから、ちゃんと弔わなければならないという思いがある。

「強敵」と書いて「とも」と読むのは、この流れにある。

「強敵」を「とも」と呼ぶ。そこには鎮魂がある。

 

 山田雄司怨霊とは何か - 菅原道真・平将門・崇徳院 (中公新書)

 藤田大誠「近代日本における「怨親平等」観の系譜