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ynkby's blog

正しく考えるというのは難しい

隠居制度を再考せよ 『マックス・ウェーバー入門』

 

マックス・ヴェーバー入門 (岩波新書)

マックス・ヴェーバー入門 (岩波新書)

 

 マックス・ウェーバーという社会学者がいた。彼は何を考えていたのか。

 

ヨーロッパは世界を圧倒する進歩を遂げた。その原因の一端はキリスト教文化にある。プロテスタントの教えから引き出された禁欲的職業倫理によって、懸命に働き、稼いだ金はパッと使ってしまわずに、再投資に回し、事業が大きくなって資本主義が生まれるに至った。それが今は堕落してきている。もう一度、ストイックさを取り戻すべき。といったようなのが、大塚久雄はじめ当初の大方の理解。

 

最近はそうではない。ウェーバーは、ヨーロッパの進歩なんて信じてない。考えてたのは、プロテスタント的倫理が展開して人間性がなくなってしまった、世界中に広まっていくであろうこの流れを止めるにはどうすればよいのか、ということ。これが本書の立場。

 

なぜプロテスタント倫理が人間性を失わせることになるのか。プロテスタントの教えによると、絶対的な神様の前では、人間の行為など無意味。救済されるかどうかは最初から決まっている。善を行なったから救済される、というものではない。当然、隣人を助けても無意味。人間関係それ自体に意味はない。絆に意味はない。つまり、個人の孤立化。現世ですべきことは、もっぱら神の意志の実現。神の道具となって毎日を過ごすこと。関心事は、今日はよりよく神様の道具となれたか。つまり、自己規律化。それが職業の場で現れたのが、禁欲的職業倫理。

 

プロテスタントの禁欲的職業倫理とは、単に一生懸命働くべしというものではない。土屋喬雄が、大塚久雄を批判した。禁欲的職業労働の精神はヨーロッパだけにしか出てこないとか言ってるが、井原西鶴の作品には江戸時代の大阪商人だって勤勉だったことが書かれていると。しかし、プロテスタントと大阪商人にはすごい違いがある。

 

確かに、大阪商人は懸命に働く。丁稚から始まり、暖簾分けしてもらって爪に火をともすように懸命に働く。しかし、45歳ぐらいになったら店を息子に譲って、実りある隠居生活に入る。実りある隠居生活とは、俳諧とか茶の湯とか、人生にとってもっと豊かな精神世界に遊ぶことである。プロテスタントはそうじゃない。職業的義務を神の義務として体が動く限り実践し続ける。それが人生の目的である。実りある隠居生活なんかない。

 

しかし、大阪商人とはちがっても、戦後日本の会社人間とは違わないかもしれない。会社人間とは、会社の役割を果たすことが目的となった人間だ。だから定年になったら粗大ごみになるのだ。会社人間こそ日本的プロテスタントなのかもしれない。定年とは、会社に捨てられるということ。それは、神様に捨てられるということに等しい。しかも、定年は不可避で、厳然と予定されている。救済されないことが予定されていながら働く会社員は、プロテスタントより悲劇的かもしれない。

 

高齢化時代において、現代的隠居制度をちゃんと考えたらどうか。定年を延長するばかりでは限界があろう。隠居といえば、宮本常一も、その社会的意味に言及している。日本の村では、隠居するまでは食っていくために懸命に働くが、隠居すると文化活動に入ったり、村の調整役的な働きを果たしたりした。江戸時代の文学は隠居制度があったから豊かになったらしい。定年になったら悠々自適に好きなことして遊んどけ、そのために趣味を持て、というのではなく、もっとパブリックな役割をこなせるような環境を用意したい。定年後は粗大ごみでは本人にとっても世の中にとってもよろしくない。

 

戦後の日本人は大阪商人の精神を忘れ、プロテスタント化してしまった。もう一度、大阪商人の精神を取り戻すべきだ。