ynkby's blog

正しく考えるというのは難しい

「女子」の意味 『婦人・女性・おんな』

 

本書は、女性史を描くとともに、女性史という分野がどうあるべきかを考える。政治運動の歴史をメインに扱っているが、生き生きした女性の生活を描く民俗学とも接触し、視野は広い。

1989年の本で、当時、著者が感じた女性の感覚の変化を描いている。お嫁さんになること、姓が同じになることが幸せの象徴ではなくなり、姓のないはんこに独立した人格を意識するようになったこと、単なる就職では女性の解放と捉えられなくなり、男性社員より業績を抑え、数年で結婚退職することを求められていることに不満を感じるようなっていること、主婦のような性的分業自体を批判するようになったこと。要するに、男に対して従たる存在であることへの反発に加え、既定の役割を負わされたくなくなったということだ。独立した人格として、自分の人生は自分が決めるという発想の現れか。

呼び名自体も変化していることを指摘する。明治は「婦人」であった。当時は尊厳をもった存在として女性を表現する意図があったようだが、次第に保守化したイメージが持たれ、また、対となる言葉もなく、男に向かい合う存在であることをきちんと出したかったということで、「女性」が使われるようになったという。らいてうあたりからが増えてきたらしい。その後、より生身の、トータルな解放を志向して「おんな」という語がつかわれるようになっているという。

確かに、「女性差別撤廃条約」は、当初は「婦人差別撤廃条約」と呼ばれていた。「婦人」は、掃除を連想させる(漢字の成り立ちから見るとそれは間違いらしいが)と嫌われたのだ。「おんな」はそれほど定着しているようには思えないが、生々しすぎるのだろうか。

では、「女子」である。「女子力」「女子会」など、しばらく前からよく耳にするようになっている。この言葉の流行は何を意味しているのかということだ。「女子」という言葉がはやるということは、それ以外の言葉、つまり、「婦人」「女性」「おんな」では表せない何かを表しているのだ。

まず、「婦人」の掃除にみられるような、担わなければならない役割を想起させない。また、男との連関がうすい。「おんな」は生々しいが、そういった面のみならず、家庭であれ会社であれ地域であれ、男と何らかのかかわりが出てこざるをえないが、そういった面でも男との連関がうすい。むしろ女子校のように、男なしで自足できる。

そして、他の語に比べて、成熟を表現していない。「婦人」は明らかに成熟しているが、「女性」も「おんな」も基本的におとなっぽい。「おとなの女性」とは言っても「こどもの女性」はちょっと変だ。「女子」はむしろ若いとかかわいいに通じる。若いこととかわいいことへの追究がすさまじい時代であることと符合する。また、おとなより活発で積極的だろうし、まだまだ自分には可能性がある、未来がある、これからこれからというイメージもあるかもしれない。

「女子」とは、学生によく使われる。学校では、職場に比べて、男に対して従たる位置づけに置かれることはない。成績は対等に評価される。男よりも仕事が出来てはいけないということもない。

「女子」という言葉には、こういったことを表したいといという思いがあるのかもしれないということだ。結局のところ、男なしでも自足できますよという傾向と、若くてかわいいの追及が強まっているということか。ありきたりの結論で面白くもなんともないが、いずれにせよ、こういうことは「女子」がどのように使われているのかをもっとちゃんと調べないといけない。

ちなみに、本書は「女子」が使われているものとして、「女子挺身隊」を挙げている。りりしさとか、強さを感じさせるが、今の「女子」とつながる点はあるのだろうか。

またついでに言っておけば、菅直人の師匠として有名な(そう単純ではないようだが)市川房江が戦時中に、戦争協力的活動をしていたことに触れていることは多少注目に値する。婦選運動が転じて動員運動になったのだった。これは市川房江の黒歴史になっており、支持者の間では戦中の活動はなかったことになっている。どう評価するかは人それぞれだが、本書は、政治参加要求を進めていったら総動員体制の一翼としてとりこまれてしまったと言う。