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正しく考えるというのは難しい

政治家は政策を勉強すべきなのか

 

小泉純一郎 ポピュリズムの研究―その戦略と手法

小泉純一郎 ポピュリズムの研究―その戦略と手法

 

 

政治家は政策を勉強すべきなのか。
良い政策を実現するのが政治家の仕事だとすれば、政策を勉強するのは当然かもしれない。政策を勉強しなければ、何が良い政策か判断できないから。
しかし、政策を実現できなければ、いくら政策を勉強しても意味がない。

政策内容の理解力と、政策の実現能力は別の能力だ。
そして、この二つは両立しないにちがいない。

このことをよく理解しているのは、郵政省をぶっ壊すの合言葉の下に、郵政族その他の強力な反対を押し切って郵政民営化を成し遂げ、圧倒的な政策実現能力を見せつけた小泉純一郎だ。

政治家は、メッセージが弱くなるから、勉強すべきでないし、議論すべきでもない、直感でいく方がいいというのが小泉の持論であった。

確かに、道路公団民営化の時に小泉とかかわった田中昭一は、小泉は委員会の議論を理解していないし、関心も持っていない、「分かった」を連発するが、分かってはいないと批判している。

小沢一郎も、小泉とは議論が成り立たない、何を質問しているかを正確に理解できていないし、理解しようともしていない、と国会の代表質問で批判している。

勉強しないから、メッセージが強くなった。ひいては郵政民営化につながったのだ。

他方、橋下知事が、都構想で敗北したのは、都構想の内容に関わりすぎ、メッセージを弱くしてしまったからにちがいない。住民投票というメッセージの強さが一番必要とされるところで、都構想の内容を説明させろとばかり言っていた。弁護士だけに小泉のようにあほになれなかったのかもしれない。

政治家は、政策内容か、実現力かのジレンマに立たされている。

「強敵」と書いて「とも」と読む文化

政敵を追い落とすと、祟りを食らうことがある。非業の死を遂げ、祟りを引き起こす魂を、平安時代あたりから怨霊と呼ぶようになった。

祟る怨霊をどうするか。名誉回復とか、お経の書写とかして、鎮魂する。菅原道真は怨霊となって、自分を大宰府に追いやった政敵を雷で撃ち殺し、世の中に災厄をもたらしたが、北野天満宮が作られたりして、ことは収まった。

道真の場合は人事の問題だが、時に政争は戦争に至る。こうなると、たくさんの人が死ぬ。そうすると、戦没者をまとめて鎮魂するようになる。そして、敵味方供養の歴史が形作られる。怨親平等の思想とか言われたりする。

称徳天皇は、藤原仲麻呂の乱の後、戦死者すべてを等しく供養するということをやっている。朱雀上皇は、将門や純友の乱の戦没者供養を行っている。源頼朝は、源平の戦乱の死者に対する鎮魂を行っている。

怨に対して、怨ではなく徳で報いれば、怨は消えるとか、あるいは、怨を転じて親となすことができる、とかいって鎮魂していた。

北条時宗は、元寇後の鎮魂に、「怨親悉平等」という言葉を使った。怨親平等とは、元々仏教語だが、転じて、敵も味方ももともと平等だから、平等に愛憐する心を持つべきだ、敵味方一視同仁、という意味だ。この辺からは、祟りや怨霊が怖いといった面より、供養、成仏、あるいは博愛主義的な様相が強くなっているようにみえる。

時代は下って、平和な江戸時代には、敵味方供養は姿を消す。が、明治に入り復活する。しかも、江戸時代に醸成された武士道の影響から、敵への敬意が加味されていた。

日露戦争後、旅順に戦没者慰霊の塔が建てられ慰霊祭が行われた。そこには、戦時中は仇敵だったが、戦後は友邦者となったのであり、ロシア人も国のための忠義を尽くした英霊であるのだから、ちゃんと弔わなければならないという思いがある。

「強敵」と書いて「とも」と読むのは、この流れにある。

「強敵」を「とも」と呼ぶ。そこには鎮魂がある。

 

 山田雄司怨霊とは何か - 菅原道真・平将門・崇徳院 (中公新書)

 藤田大誠「近代日本における「怨親平等」観の系譜

 

 

日本が清潔な理由、京野菜がブランド化した理由

 

京都〈千年の都〉の歴史 (岩波新書)

京都〈千年の都〉の歴史 (岩波新書)

 

 日本が清潔なのは、16世紀に人糞肥料ビジネスシステムが確立したからだ。

人糞肥料ビジネスシステムが確立したのは、日本が人糞肥料文化だからだ。
日本が人糞肥料文化になったのは、豚がいなかったからだ。

人糞肥料ビジネスシステムによって日本が清潔になったのは、人糞の商品化へ向けた設備投資により、汲み取り式便所が普及したからだ。
人糞の商品化が試みられたのは、農業の発展に伴い、肥料需要が高まったからだ。
汲み取り式便所が作られたのは、人糞を、不純物のない形で一か所に集め、売ることができるからだ。
日本が清潔になったのは、汲み取り式便所の普及により、それまでの街角排便の習慣がなくなったからだ。

京野菜がブランド化したのは、京野菜がうまかったからだ。
京野菜がうまかったのは、汲み取り式便所型近郊農業が確立したからだ。
京野菜がうまかったのは、京都近郊なので、質のよい人糞肥料が手に入ったからだ。
京野菜の人糞肥料の質がよかったのは、京都から供給される人糞の質がよかったからだ。
京都の人糞の質がよかったのは、京都には美食者が多かったからだ。
美食者の人糞がよいのは、人糞の質は、その供給者の食べている物で決まるからだ。つまり、美食者の糞からの方が、粗食者の糞からよりも、よい人糞肥料ができるからだ。

日本が清潔で、京野菜がブランド化したのは、人糞肥料ビジネスシステムが確立し汲み取り式便所が普及したからだ。

 

2009年米国トヨタリコール大騒動の原因

 

不具合連鎖

不具合連鎖

 

 

 

プロの交渉術。どんな場面でも絶対負けない28の最強ノウハウ

プロの交渉術。どんな場面でも絶対負けない28の最強ノウハウ

 

 

2009年から始まる米国トヨタリコール事件。3回リコールしている。9月29日にアクセルペダルがフロアマットに引っかかるかもしれないとしてリコールを発表。翌2010年1月21日には、フロアマットとは関係なしにアクセルペダルがが戻ら格生るかもしれないとリコール発表。さらに2月9日、プリウスなどのブレーキが利きにくいとリコール。NYTは、トヨタが落ちていくのを見るのは楽しいとか書いた。トヨタ社長は、米議会に呼び出された。

なぜこんな大事になったかというと、鳩山由紀夫のせいであるという。その交渉ベタが原因であるらしい。

交渉には、当然、テクニックがいる。例えば、ちゃんと段階を踏んで進めていくことが大事だ。交渉を三つの段階に分ければ、まずは、友好性を示すと同時になめられないような関係を築く。次に、言うべきことを主張する。最後に、落としどころに落とす。というような順を踏んでいく必要がある。

しかし、鳩山由紀夫は、これをすべて無視した。

2009年の8月30日に政権交代を起こす総選挙があったのだが、その直前、8月27日に、NYTに鳩山は反米記事を載せた。フランス革命のスローガン、自由・平等・博愛をフランス語で載せ、イラク戦争批判、金融政策批判を展開した。総理になる直前、オバマに会う前である。なめられてはいけないが、まずは、友好を示すべき段階で、喧嘩を吹っ掛けたのであった。アメリカメディアは大騒ぎし、ホワイトハウスは憤慨したという。

その後、日米交渉はガタガタであった。鳩山はオバマに会ってもらえない。日本として主張すべきことが、全く主張できなかった。そして、ガタガタのまま、鳩山は去っていった。何の解決もない。落としどころも何もない。アメリカには、喧嘩吹っ掛けられた後味だけ残ったという。

トヨタリコールの大騒動は、2009年8月28日のレクサスの事故を大々的に報じることから始まっている。

夫婦別姓を考えるモデル

夫婦別姓について考えるにあたり、姓にかかわる社会制度を三タイプ考える。

①氏族本位制。②家本位制。③個人本位制。

氏族本位制とは、姓が氏族名のものをいう。家本位制とは、姓が家名のものをいう。個人本位制とは、姓が個人名のものをいう。

氏族とは、血縁集団である。この集団の名が、氏族名という団体名である。個人が、ある氏族名を名乗ることは、その個人は、その氏族に所属していることを意味する。
家は、婚姻両当事者から成る団体である。この団体の名が家名である。個人が家名を名乗ることは、その個人が、その家に所属していることを意味する。婚姻両当事者は同じ家名を名乗ることになる。

婚姻両当事者が、異なる氏族出身であるとする。この時、婚姻両当事者各々の出身氏族所属のまま変わらない場合と、どちらかに転属する場合、新しい氏族を作る場合がある。一番目の場合、婚姻両当事者は、異なる氏族名を名乗り続ける。二番目であれば、転属する者が氏族名を変え、婚姻両当事者は、同じ氏族名を名乗ることになる。三番目は両者新しい氏族名を名乗ることになる。

子ができた時、その子の所属はどうなるのか。一番目の場合、両属しないのであれば、所属する方の氏族名を名乗ることになる。片親と同じ氏族名、もう一方とは異なる氏族名になる。両属するのであれば、二つの氏族名を名乗ることになる。二番目の場合、子の所属先は自明であり、親と子は同じ氏族名となる。三番目の場合も、親と子で同じ氏族名となる。

家と氏族の関係はどうか。婚姻当事者が氏族から独立しないとき、家は、婚姻当事者の所属氏族の構成団体となる。婚姻当事者の一方が転属し同じ氏族となっている場合は、家は、その氏族の構成団体となる。転属しない場合、家は、各々の氏族に両属するか、どちらか一方の氏族に属することになる。婚姻当事者が氏族から独立するなら、独立氏族下の家ということになる。
家名と氏族名は別のものである。家名を支配氏族名と同じにしてもよいし、しなくてもよい。

婚姻により新しく家を作るとき、婚姻者の出身家と新家の関係は、独立である。自由に新家の名をつけることができる。婚姻両当事者の出身家の家名を踏襲することもできる。その場合、複数の家名を持つことができれば、各々の家名を踏襲できる。できないのであれば、どちらかを選ぶことになる。

氏族本位制では、姓は、氏族名である。転属しない場合、夫婦別姓となる。家名と姓に、特段の関係はない。家名が設定されなくても、姓にとって特段の問題はない。家というものを特に意識する必要もない。
家本位制では、姓は、家名である。夫婦同姓となる。加えてその子も同姓となる。複数家名が可能であるなら複数の姓を同時に持つことができる。その場合も、家の構成員は同じ姓を持つことに変わらない。
個人本位制では、姓は個人名となる。団体名として観念できない。当然、夫婦同姓になるわけではない。子の姓が親と同じである必要もない。

朝鮮を見下す文化は和の文化が一因 『王権誕生』

 

王権誕生 (日本の歴史)

王権誕生 (日本の歴史)

 

 

筆者は、邪馬台国の成立を、明治維新になぞらえる。それは、薩長土肥連合で作られた明治政府と同様な、筑備播讃などからなる連合政権であるという。

西暦で言うと2世紀後半から3世紀辺り。倭国は乱れた。

それまで九州のイト国が倭国を代表していた。後漢の後ろ盾を得て、大陸との貿易で巨万の富を築いてきた。しかし、2世紀も終わりになると、後漢は衰亡し、三国志の時代へと突入することになる。これによって、それまで倭国を取りまとめていたイト国は、その後ろ盾を失うことになる。倭国のタガが外れてきた。

倭国の中の各クニが並び立つ状態。このような緊張感が高まった中で、各クニはどうしたかというと、連合政権をヤマトの地・纏向に作って解決したという。これが卑弥呼邪馬台国だ。筑備播讃らが中心で、中でもキビのクニが優位であったようだが、別にキビが他のクニを支配するというものでもない。前方後円墳が作られるのはこの時期からだが、それは、各クニを連合した新しい政治組織としての祭祀を、それまでの各種伝統をもとにして新しく作ったのだ。

中国の古文書をもとに、倭国の乱と言われたりするが、中国であったような、黄巾の乱が勃発し、諸豪族が乱立し、三国鼎立に至るような内乱があった様子は、考古学的にはないらしい。緊張関係はあったものの、大乱には至らず、連合政権を作ってまとまったようだ。中国側から見ると、倭国の中の各クニが並び立って、どれが倭国を代表して、中国と外交するのかわからない状態。これを乱ととらえたようだ

倭国全体を巻き込む大乱なしに連合政権を作ったとすると、これが後の朝鮮半島に対する外交的優位確立のもとになったのかもしれない。当然のことながら、内乱は国を弱くする。朝鮮半島では、高句麗やら百済やら新羅やらその他小都市国家やらが、半島統一へ向け戦争しまくった。やるかやられるかしかないようだ。そして、負けが込んできた国が倭に助けを求めるという形で同盟を結んだ。当然、倭の有利に外交が進む。救援出兵してやるから先進技術を教えろよ、などと。そして、記紀で属国扱いされるに至る。先進文明を持っていたにもかかわらず、こんなことになったのは、内乱が原因にちがいない。

邪馬台国を作るにあたって、色々軋轢があったかもしれない。それでも連合政権ができたということは、和の精神があったからかもしれない。とすると、和の精神は、聖徳太子よりさらに、邪馬台国にまでさかのぼれるということになる。聖徳太子が和の精神を説いたのかどうかは知らないが、和の精神とは、豪族同士が争って内乱になると朝鮮みたいに国として弱くなるからやめろという国家政治レベルの話かもしれん。崇仏廃仏の争いを経験してきた人だし。

欧米人を鼻差別 『ヨーロッパ人相学』

 

ヨーロッパ人相学―顔が語る西洋文化史

ヨーロッパ人相学―顔が語る西洋文化史

 

 

どんな人相がどんな人格なのか。アリストテレスから現代に至るまで、人相と人格の関係は、どのように理解されてきたのか。

こういった人相は、こういった人格。ゆえに犯罪者になる傾向が強いとか。人相と人格の結びつけは、容易に差別に結びついた。昨今、人相学が流行らない原因の一つらしい。

ユダヤ人差別も、人相という観点から捉える。

例えば、19世紀には進化論的色彩をもった人種差別があって、それは、進化論的に、アジア人は白人とちがって未発達で、猿・類人猿に近いというものであるが、白人であるユダヤ人も、退化して猿・類人猿に近いとされた。風刺画などで猿顔に描かれていたりする。

古くから、風刺画などに描かれるユダヤ人には定型があるらしい。ユダヤ帽、服につけたローテラという車輪型マーク、髭、鉤鼻、偏平足といったものだ。

中でも鼻は、感情表現力の強い器官で、一般に、強情、卑劣、強欲といった性向を表すという。鼻を誇張するだけで滑稽で野卑な印象を与えることができる。風刺画家は、鼻をデフォルメすることで、ユダヤ人の内面を描き出したという。確かに、鉤鼻は、魔女の鼻だったりする。

欧米では、正面顔だけの日本と違って、横顔が重視されるらしい。だから、鼻がより目立つ重要な部位となる。こういったこともあって、侮蔑するのに、鼻のデフォルメがなされやすくなる。

とすると、欧米人をデフォルメするとき、鼻には気をつけなければいけない。欧米人をデフォルメして高い鼻に描くと、不快に感じる欧米人がいるという。デフォルメ自体が不快感を与え得ることはおいといて、これには、欧米の鼻文化が影響しているのかもしれない。細かいこと言えば、高さよりも形が問題なのかもしれない。

高い鼻に憧れるだけの日本の鼻文化とちがって、欧米の鼻文化はより複雑なのかもしれない。

日本の鼻文化が本当に高いに憧れるだけなのかは知らない。