本書は、7世紀の日本の動きを、国際情勢から捉える。
7世紀とは大体、聖徳太子から持統天皇あたりだ。中国は隋・唐の時代。朝鮮半島あたりには、高句麗、新羅、百済の3国がいて、これらがかなり激しくぶつかりあっていた。朝鮮半島で7世紀とは、新羅が朝鮮半島を統一した世紀だ。
7世紀の日本国内の動きはこれらと無関係ではない。
6世紀後半あたりから新羅が強くなり、朝鮮半島で勢力を拡大していった。高句麗と百済を相手にしたので、加勢を得るため、隋と友好関係を築いた。隋・新羅vs高句麗・百済という構図だ。
一方、倭は、伝統的に百済と友好関係にあり、また、伽耶という朝鮮半島の勢力圏を新羅に奪われたりしたので、新羅と戦闘モードに入った。聖徳太子の遣隋使は、新羅と戦いながら、隋とは戦うことのないよう関係を結ぶためのものだ。
その後、唐の時代になっても、大体、同じ国際関係が続く。唐・新羅vs高句麗・百済・倭。そして、絶頂期の唐による侵攻が始まる。まず、660年に唐・新羅連合が百済を攻め滅ぼした。続けて、同盟関係にあった倭も、663年に白村江の戦いで破った。そして、668年に高句麗も滅ぼした。
唐は、残った倭の征討に向けて着々と準備を進めた。倭は、天智天皇の時代。白村江で負けた後、国防に取り組んだ。都を近江に後退させ、九州に砦を築き、国政改革を進め、唐からの攻撃に備えていた。
しかし、唐がいざ出陣しよかという670年、高句麗遺民が反乱を起こした。そして、新羅がこれに呼応し、唐と新羅が戦争を始めるという事態になってしまった。新羅は朝鮮半島統一へ動き出したのだ。
新羅と戦闘態勢に入ると、唐は、倭の討伐どころではなくなった。それどころか、倭に、新羅を討つため同盟しようという話をもちかけたりした。同様に、新羅も倭に使いを送った。どちらに付くべきかという重大な判断を迫られていたとき、天智天皇は病気になって死んでしまった。その後、後継者争いの壬申の乱を経て、天武天皇は、臨戦態勢を維持しながらも、唐と新羅の戦いに直接かかわったりはせず、引いた感じで見るという作戦に出た。
そうこうするうちに、唐の各地で反乱が起こり始め、また唐自体が則天武后にやられてしまったりしたので、倭は平穏を取り戻した。
この時代、戦争が続き、国が滅亡したりする中、倭の国内体制は、戦争に対処するためのものに変わっていった。豪族やらが割拠するのを防ぎ、天皇のものに力を結集、権力を一元化して事に当たる体制作りである。聖徳太子の時代に冠位十二階などでちょっと進めた。大化の改新では蘇我氏をやっつけ、天皇一元化と言えるようにした。白村江敗戦後の天智天皇の改革では、律令制・官僚制を整え、国家意志をかっちり作れるようにし、戸籍を作って国民を把握、総動員体制を敷いた。
天皇親政の中央集権・律令国家体制は、この極東情勢がなかったら生まれなかったかもしれない。その後の大陸からの脅威がなくなった日本では天皇はお飾りになっていった。
そして、現在の極東情勢は、7世紀のそれと似たようなものだ。力をつけた中国。分裂した朝鮮半島。朝鮮半島2国は、どっちが中国の友好国で、どっちが敵対国か分からなくなっている。中国と朝鮮半島の情勢を踏まえ、日本は国内体制を作っていく。極東伝統の構図である。
現政権の動きは、極東情勢と無関係ではない。豪族を排し天皇のもとに一元化したように、総理のもとに一元化されていくだろう。軍事面もそう。安倍さんの爺さんあたりの再軍備論は、米国占領からの独立、一人前の独立国家たる姿にこだわった一方、外国から攻めこまれるかもしれないという危機意識はなく、精神論的な意味合いが強かったが、今は、より現実的になっている。