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正しく考えるというのは難しい

象徴天皇制はいつできたのか 『神々の体系』

 

神々の体系 ──深層文化の試掘 中公新書

神々の体系 ──深層文化の試掘 中公新書

 

 

古事記天皇家権威向上目的の書としてみるのが津田左右吉だが、そうではなく藤原氏権威向上目的なんじゃないか、という書。

というのも、古事記ができたのは元明天皇の時だが、元明藤原不比等の傀儡だったし、平安時代に栄華を極めた藤原氏もこの時代は駆け出しの頃だったからだ。物部氏など伝統ある大豪族のいるなか、藤原氏には大きな顔ができるだけの歴史がない。藤原氏の出身母体である中臣氏は、しがない中小豪族でしかない。不比等は、藤原氏の権威を高めるためのものを必要としていたのだ。

権威付けのために歴史が利用される。歴史書にちょっと中臣氏の祖先を書き込めばいい。よき由緒が手に入る。不比等古事記日本書紀に手を出す理由はあるのだ。同じ新興豪族だった蘇我氏はそれをやったらしい。

しかし、そもそも大化の改新とか律令制で天皇がリーダーシップをとって政治をしてたというイメージが間違いなのだという。天皇の力は、5世紀の倭の五王の時代が一番強く、継体天皇以降は弱いのだ。

確かに、継体天皇は、傀儡だったにちがいない。継体天皇は、武烈天皇に後継ぎがなく天皇がいなくなった後、大伴金村が遠くから連れてきた天皇だ。なんのために連れてきたのか。天皇ブランドを利用して、他の豪族とは一線を画す権威を得ようとしたからにちがいない。継体天皇から、天皇は、豪族を権威づける道具になったのだ。

こうして、天皇と諸豪族のゲームが始まる。豪族は天皇をゲットして権威強化を図る。天皇も、自信の力の伸長を図る。新興豪族である蘇我氏天皇と結びつき、物部氏ら伝統豪族と伍していく力をつける。天皇は、蘇我氏と結びついて、旧豪族のコントロール下から脱却する。あるいは、中臣鎌足と結びついて蘇我氏の傀儡という立場からの脱却を図り、中臣氏は天皇と結びつくことで格を上げていく。

この流れは以降も続く。藤原氏の傀儡になった後も、徳川に至るまで、天皇は新興勢力の権威づけに使われ続ける。そして、薩長政府の傀儡となり、長州・山形有朋の作った官僚機構の傀儡となって現在に至っている。このゲームは、大伴金村に始まるといっても過言ではないにちがいない。