まず、あるなしという事実の話なのか、あるべきか否かの話なのか。
「べし」の話なら、価値観の話。
事実の話だとすると、貴賤とはなにか。
人の感覚の問題で、ある人が何かを想起した時に、貴の感覚が生じるものがその人にとって貴であり、賤の感覚が生じるものがその人にとって賤であるなら、ある職業を想起した時に、貴の感覚が生じるなら、その職業はその人にとって貴であり、賤の感覚が生じるならその人にとって賤である。
貴の感覚が生じる職業しかない場合、その人にとって職業は貴である。
賤の感覚が生じる職業しかない場合、その人にとって職業は賤である。
貴の感覚も賤の感覚も生じない職業しかない場合、その人にとって職業に貴も賤もない。
貴の感覚が生じる職業と、賤の感覚が生じる職業の二種があれば、その人にとって職業に貴賤はある。
人間には共感能力といえるものがあり、この能力によって、何かを想起した時に生じる感覚が、複数人の間で同じになるなら、あるいは、人間はDNA的に生じる感覚が同じになるなら、ある職業を想起した時に、貴の感覚が生じるな否か、賤の感覚が生じるか否かは、複数人の間で同じになる。したがって、職業と貴賤の関係は、その複数人の間で同じになる。この複数人によって、社会といわれるものが構成されているとき、職業と貴賤の関係は社会的に決まる。