ynkby's blog

正しく考えるというのは難しい

理解が妨げるもの

宗教学者が鸚鵡真理教を理解したいと言ったら、理解したいとは何事か!と非難されたとすると、理解の意味に齟齬が生じているのかもしれない。

理解には、単に知る、ということだけでなく、共感するとか賛同するとかいう意味合いまで含まれる。鸚鵡真理教を理解したいと言ったとき、鸚鵡真理教の教義に賛同する、共感すると言っていると受け取られることになる。A氏が、親父なんか死ねばいい、と言ったのを聞いたBさんが、おまえの言うことは理解できん、と返したとき、Bは、Aに共感できない、賛同できないと言っているのだ。

しかし、機械を分解して内部構造を調べどのように動くのか分かった時、仕組みを解明した時にも、機械を理解したという。ここには機械に対する共感も賛同もない。比喩的にはともかく。鸚鵡真理教を理解したいというのは、その中身を解明したいということかもしれない。

理解は情緒的に使われる。敵を知り己を知れば百勝できるのかもしれないが、敵を理解すると裏切り者になる。知るを使わず理解を使う者は、情緒を排し冷徹に物事を分析して知る、ということができない。

理解は冷徹な分析を妨げる。解明するとか、知ると言わねばならない。