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ynkby's blog

正しく考えるというのは難しい

日本の美は様式美とする 『イギリス人アナリスト 日本の国宝を守る』

 

 ゴールドマンサックスとかではたらいた後、不可解な神秘の国、日本で余生を送ろうかと思ったら、文化財修復会社の社長になってしまった筆者が、日本人のビジネスやおもてなしにものいう。

おもてなしとか言うが、全然融通がきかない、全然客の要望に答えようとしない。由緒あるホテルに行ったとき、早く到着したので、チェックインの時間より早いけどもう部屋に入れてくれないかと頼んだら、まだ時間じゃないからとかいって、部屋の準備はもう済んでるのにロビーで待たせる。じゃあレストランで時間をつぶそうかと思ったら、まだチェックインしてないから客じゃないといって使わせない。筆者は、日本の銀行を思い出す。クレジットカードの再発行に書類やら身分証やらいっぱい出せという。そんなにいらんやろ。

こんなことになるのは、してやっているという上から目線と、面倒くささからだろう、と著者は考える。

確かに、銀行とか由緒あるお店とかにはそういうこともあるかもしれないが、それ以外にもあるんじゃなかろうか。

おもてなしには、型がある。例えば、客を家に招く場合、その型をこなすことになる。まず掃除して、客を迎え入れて、次にご飯食べさせて、次にお風呂に入れて、、、。これができないとホストとして失格となる。そして、招かれた方にも、早く行き過ぎると迷惑かけるとか、招かれた者がこなすべき型がある。

こうして、主客あいまって、型をこなしていかねばならない。そして、これを美しくこなすことに美を見出す。おもてなしの美は、主客両者の美しい立ち回りから成る。型を美しくこなす。日本の美は様式美。

これには技量が要求される。型をマスターした人なら、型をこなしつつ融通無碍に動き回れるかもしれないが、未熟だと型をこなすのに精一杯になる。客の細かな要望に応える余裕はない。マニュアル人間とか、型にはまるとかいう状態。

こういった様式美思考は、型をいかにうまくこなすかということに注意が向き、型自体をどうこうしようという発想には結びつきにくい。そもそも型を変更する手続きみたいなのがない。型は不変。

ルールが型だとすれば、ルールを変えようという発想にはならない。既存のルールに異常適応したり、何か不都合があるとルールを曲解する、はては黙殺する方向に動く。日本が強い競技のルールを西洋に有利なように変えられてしまうのであれば、日本にルールは変えられるという発想がないのが原因。

ただ、型が永久不変なのかというとそうでもない。勢いがあれば一気に変わる。ひげ、茶髪がどんどん許容されている。これは、西洋人的には考えられないことらしい。型の力が失われたということか。そうなるとどんどん変わる。なし崩し的に変わる。そして新しい型が出来上がっていくだろう。

日本と西洋を比較すれば、日本が改正手続きに目もくれないのに対して、西洋はルールの改正手続きを踏む。むしろ改正手続きがないと変わらないのかもしれない。自然法はそういうものなのかもしれない。

また、型が変わらなくても、型を放逐することはある。キレるとか、タガが外れるとか。この時、その人は自然状態になる。