ynkby's blog

正しく考えるというのは難しい

よいとかよくないとかはややこしい

日本の植民地支配はよかった、というとボコボコにされるのか。

よいとかよくないとか言うには、その判定の基準点が必要だ。

例えば、他の西洋列強のやっていた植民地支配とか、あるいは道徳とか。
道徳にも色々あって、劣った民族に文明をもたらす義務がある、とする道徳Aもあれば、民族は自身で物事を決めるべし、とする道徳Bもあったりする。

なので、他の西洋列強のやっていた植民地支配よりはよく、道徳A的にはよく、道徳B的にはよくない、ということもありえる。

新しい安保制度案はよいのかだめなのか。現状を基準点とするのと、理想状態を基準点とするのとで、ことなる判定となるかもしれない。

日本の民主主義は、立憲主義は、言論の自由はどうか。

いずれにせよ、何を基準点としているのかで相互の理解がズレていると、会話はかみ合わない。

道徳Aは基準点とすべきでないとかいう問題は、また別の話。

パラサイトはどっちが悪いのか 『大国主の神話』

 

大国主の神話 出雲神話と弥生時代の祭り

大国主の神話 出雲神話と弥生時代の祭り

 

 本書は、大国主神少彦名神の謎に迫る。大国主とは、出雲の神様で、天孫が降りてくるまで、この国を治めていた神様。少彦名とは、穀物の神様で、大冝津比賣の死体から生えた五穀から神産巣日神がその種を作った時、その指の間からポロッと落ちた神様。

大国主は、地上を統治し、少彦名とコンビを組んで、農業はじめ国作りにまい進したのだが、もともと大国主はすこぶる弱いダメ神様だった。大国主の神話の半分は、か弱い大国主が、地上を統治するまでになる成長物語である。

大国主は、女神様にはすこぶるモテた。だから兄神たちに嫉妬され2度も殺された。殺されるたびに、母神の刺国若比賣が手を尽くし、生き返ることになる。2度殺されて生き返ると、母神は、もう殺されないようにと、紀国に大国主を逃がし、さらに、須佐之男がいる根の国に逃げることになった。そこで須佐之男の試練に耐え、成長し、須佐之男から地上を統治せよと言われるにいたる。地上に帰った大国主は、2度まで殺された兄神たちをいとも簡単にやっつけてしまった。

日本の文化的にポイントなのは、刺国若比賣であるらしい。2度も殺されてしまい、もう自分ではどうしようもない、大国主の成長に寄与できないと悟るや、紀国にやってしまった。これを機に大国主は成長し立派になったのだ。

西洋では全く違う。ユングの母殺しに象徴されるように、西洋では、母を殺して子は自立し、大人になる。殺さなければ、永遠に少年のままだ。しかし、大国主は母を殺さず成長した。日本に、母殺しという残酷なものはない。母が子を他所にやる。子離れして子を成長させる文化であるようだ。

西洋も日本も、子が成長するには母から離れないといけないというのはいっしょだ。成長しなければならないなら、両者がいっしょにいるのはよくない。パラサイトとかは、よくないことになるが、日本においては、おそらく子離れしない親の方が悪いにちがいない。

なぜ日本は日露戦争後ダメになったのか 『幕末史』

 

幕末史 ちくま新書

幕末史 ちくま新書

 

 攘夷とは何か。

幕末期、攘夷というタームは様々な意味で使われたという。
排外行動。つまり外国人を切り捨てたりするもの。そして、条約改正。当時、条約改正というタームはなかった。破約攘夷と言うらしい。これには戦争も辞さず、という強固派もいれば、戦争は避けるべしという穏健派まですべて含まれた。さらには、意識高揚運動。孝明天皇が攘夷を願って神社にお参りに行ったりしたが、このお参りも攘夷であった。

ということで、ひと口に攘夷というくくりでは、大雑把すぎる。天皇は条約改正を求めたが戦争は避けるべしという穏健派だった。戦争して排撃せよという人たちと区別して理解しないと、当時の政治的な対立状況がちゃんと把握できない。

この基本的理解をもとに、幕末から明治を、不平等条約を結ばざるを得なかったという屈辱からはじまり、西洋列強と伍していくために挙国一致体制の確立を目指す物語として描く。目的は、条約改正。

挙国一致体制を確立すべしというのは、長州も薩摩も幕府も同じだった。しかし、その中身をどのようなものにするかは人それぞれ異なり、最終的に、幕府の下に集まるでもなく、朝廷の下に集まるでもなく、新しい政府をつくることになったらしい。そして、新政府の下、廃藩置県して、中央集権体制を作り上げ、条約改正に向け、文明開化に突き進んでいくことになった。

とすると、日本は日露戦争が終わったら突然ダメになった、のだとしたら、日露戦争後に条約改正が達成され、幕末の屈辱以来の、挙国一致の日本の目的が達成されてしまったからに違いない。以降、日本は、目的がなくなり漂流し出した。挙国一致もなくなり、セクショナリズムでバラバラになって迷走し崩壊した。

そして崩壊後、再び屈辱から始まった戦後も、先進国としての地位を得て目的を失い、漂流を始め、再び崩壊し、そしてまた屈辱から始まることになる。日本は屈辱に依存している。屈辱を晴らすと崩壊する。屈辱とともに生きる。

日本のハロウィンは広まるか 『USJのジェットコースターはなぜ後ろ向きに走ったのか?』

 

USJのジェットコースターはなぜ後ろ向きに走ったのか?
 

 USJを、ファミリーを取り込み(第一段階)、遠方からも客を呼べるようにし(第二段階)、USJのノウハウを複数個所に展開し(第三段階)、成長させるというプランを立て、第二段階にあたるハリーポッターができるまでを描く。なので、第一段階が主な内容になっている。震災直後に大人1人につき子供1人を無料にするキッズフリーとか、ユニバーサルワンダーランドという子供・ファミリー向けのエリアを作ったりとか、子供向けの施策が目立つが、女性向けという面も強い。

日本女性はアメリカ女性の2倍の頻度でテーマパークに訪れる。しかも母親層が多いという。アメリカ女性ほど感情を表に出さず、言いたいことを言わない日本女性にとって、テーマパークは重要なストレス発散装置となっているかららしい。しかも母親の場合、子供を預けてストレス発散するのに罪悪感を覚える人が多く、そのため子供と一緒に楽しめるという点からも、テーマパークが選ばれることになるという。

そんな女性向けイベントの一つとしてテコ入れしたのが、ハロウィンのイベント。ハロウィンは、子供が仮装してイタズラするぞと言いながら家を回ってお菓子をもらったりする、羽目を外していい非日常のお祭り。だから仮装も悪魔とか死体とかダークなものになる。ということで、夜にゾンビを徘徊させ、女性にキャーキャー言ってもらってストレスを発散してもらうハロウィーン・ホラー・ナイトを始め、これが成功した。

ここ最近、日本でハロウィンの認識が加速度的に広まっている。コスプレが一般に広まってきたからとか言われているが、どうもUSJもそれに絡んでいたようだ。ハロウィンは、クリスマスとかバレンタインとかと同じ、日本に全くなじみのない舶来品で、こういうのは、だいたいビジネスのにおいがする。サンタさんがプレゼントをくれるクリスマスはおもちゃとかの業界が引っ張り、バレンタインはチョコレート業界が引っ張ったとするなら、ハロウィンはイベント屋さんが引っ張ったということか。

ハロウィンは一般に広まるのだろうか。ハロウィン大会がイベント会場を出て一般に広まるのは難しそうだが、子供にあげるハロウィンお菓子なら、一般人も関わる新たなマーケットととして出来上がったりするかもしれない。日本のハロウィンはお菓子を通じて一般化していくにちがいない。

南京大虐殺は酒池肉林 『殷』

 

殷 - 中国史最古の王朝 (中公新書)

殷 - 中国史最古の王朝 (中公新書)

 

 史記とかに書かれている殷の歴史は、その時代が終わってかなりの年月が経った後に書かれたもので、いろいろ脚色もあって信用できない。ということで、本書は、殷の歴史を、甲骨文字の解読をもとに明らかにしていく。

殷は、紀元前16世紀に建国され、紀元前14世紀ごろに分裂状態に入り、紀元前13世紀にふたたび統合され、しばらく平和に栄えたが、外国からの攻撃が増加し、それに対応するために集権化を進めたものの、それが殷に服属していた者たちの不満が増す結果となり、反乱が増え、それに対処していたが最終的に紀元前11世紀、服属勢力の一つ、周に倒された。

史記には、殷が滅亡したのは紂王が酒池肉林とかで堕落したからというような書きぶりになっているが、甲骨文字を見る限り、紂王は、軍事教練とかに忙しく、酒池肉林している暇などなかったという。それはクーデター政権である周の正統性をアピールするための作り話だという。周自体は、殷の領主やら臣下やらみんなが酒におぼれたから天命を失ったと言っていた。春秋時代になって紂王のみに責を帰す文献が現れたという。

ということは、南京大虐殺30万人が、当時南京には20万人ほどしかいなかったのであり得ないとすると、それを知った上で中国共産党が30万人を主張するとすれば、たぶん酒池肉林を主張したいからにちがいない。当初は日本に対し優位に立てる単なる外交上の武器だったのかもしれないが、中国共産党政権正当化のための酒池肉林に格上げされたにちがいない。

史記に酒池肉林が記載されたように、後代の中国の歴史書には南京大虐殺が記載されることになるだろう。そして、殷が悪いという内容から、紂王個人が悪いに変化したことからみて、南京大虐殺も日本が悪いという内容から、特定責任者が明示化されることになるだろう。

なぜ有休消化が増えないのか 「産屋習俗にみるケガレ・共助・休養」

 

出産の民俗学・文化人類学

出産の民俗学・文化人類学

 

 妊娠すると退職を迫られるというのがニュースになった。妊娠は長らく血の穢れとされてきた。今はもうそんなことはないかもしれないが。しかし、無意識の感覚として残っているのかもしれない。とすると、穢れゆえ遠ざけないといけないという無意識の感覚から退職が迫られているということかもしれない。

妊娠は穢れだから遠ざけないといけないというのは、産屋に見られる。妊娠中から産後暫く、妊婦は、家を出て村はずれの産屋で生活する風習があった。産屋は、その都度作られ、産屋を出ると燃やし穢れごと消し去った。

穢れが移らないよう村から遠ざける隔離施設として産屋は理解されていたが、本論考は、産後、産屋で過ごさせることには、家事その他の仕事からの解放という機能があったことを指摘している。別に村から孤立させられているわけではない。いろいろ栄養のあるものを持ってきてくれる。海女の村とか尋常ではないハードワークが待っているところでは、産後、産屋に籠る期間も他の村の場合より長かったらしい。

穢れと産休がリンクしていた。ということは、穢れとかいって女性をおとしめるのはイカンと、穢れ関連の風習を考えなしに禁止していくと、産休機能も一緒になくしてしまい、えらいことになりかねない。

では、穢れはイカンが産休は必要だとすると、穢れを断ち切って産休を自立させる必要がある。しかし、産休を穢れとリンクさせるのにはわけがある。休暇をとるにはそれなりの理由が必要で、弱ってるからなどというのは、ガンバリズムの日本では通用しない。他方、穢れ嫌いの日本では、穢れてるから、というのは理由になった。しかも、自分をおとしめているのだから波風立たない。どうやったら有休消化が増えるのか、こういう面から考えてみればいい。

日本の美は様式美とする 『イギリス人アナリスト 日本の国宝を守る』

 

 ゴールドマンサックスとかではたらいた後、不可解な神秘の国、日本で余生を送ろうかと思ったら、文化財修復会社の社長になってしまった筆者が、日本人のビジネスやおもてなしにものいう。

おもてなしとか言うが、全然融通がきかない、全然客の要望に答えようとしない。由緒あるホテルに行ったとき、早く到着したので、チェックインの時間より早いけどもう部屋に入れてくれないかと頼んだら、まだ時間じゃないからとかいって、部屋の準備はもう済んでるのにロビーで待たせる。じゃあレストランで時間をつぶそうかと思ったら、まだチェックインしてないから客じゃないといって使わせない。筆者は、日本の銀行を思い出す。クレジットカードの再発行に書類やら身分証やらいっぱい出せという。そんなにいらんやろ。

こんなことになるのは、してやっているという上から目線と、面倒くささからだろう、と著者は考える。

確かに、銀行とか由緒あるお店とかにはそういうこともあるかもしれないが、それ以外にもあるんじゃなかろうか。

おもてなしには、型がある。例えば、客を家に招く場合、その型をこなすことになる。まず掃除して、客を迎え入れて、次にご飯食べさせて、次にお風呂に入れて、、、。これができないとホストとして失格となる。そして、招かれた方にも、早く行き過ぎると迷惑かけるとか、招かれた者がこなすべき型がある。

こうして、主客あいまって、型をこなしていかねばならない。そして、これを美しくこなすことに美を見出す。おもてなしの美は、主客両者の美しい立ち回りから成る。型を美しくこなす。日本の美は様式美。

これには技量が要求される。型をマスターした人なら、型をこなしつつ融通無碍に動き回れるかもしれないが、未熟だと型をこなすのに精一杯になる。客の細かな要望に応える余裕はない。マニュアル人間とか、型にはまるとかいう状態。

こういった様式美思考は、型をいかにうまくこなすかということに注意が向き、型自体をどうこうしようという発想には結びつきにくい。そもそも型を変更する手続きみたいなのがない。型は不変。

ルールが型だとすれば、ルールを変えようという発想にはならない。既存のルールに異常適応したり、何か不都合があるとルールを曲解する、はては黙殺する方向に動く。日本が強い競技のルールを西洋に有利なように変えられてしまうのであれば、日本にルールは変えられるという発想がないのが原因。

ただ、型が永久不変なのかというとそうでもない。勢いがあれば一気に変わる。ひげ、茶髪がどんどん許容されている。これは、西洋人的には考えられないことらしい。型の力が失われたということか。そうなるとどんどん変わる。なし崩し的に変わる。そして新しい型が出来上がっていくだろう。

日本と西洋を比較すれば、日本が改正手続きに目もくれないのに対して、西洋はルールの改正手続きを踏む。むしろ改正手続きがないと変わらないのかもしれない。自然法はそういうものなのかもしれない。

また、型が変わらなくても、型を放逐することはある。キレるとか、タガが外れるとか。この時、その人は自然状態になる。