ynkby's blog

正しく考えるというのは難しい

朝鮮を見下す文化は和の文化が一因 『王権誕生』

 

王権誕生 (日本の歴史)

王権誕生 (日本の歴史)

 

 

筆者は、邪馬台国の成立を、明治維新になぞらえる。それは、薩長土肥連合で作られた明治政府と同様な、筑備播讃などからなる連合政権であるという。

西暦で言うと2世紀後半から3世紀辺り。倭国は乱れた。

それまで九州のイト国が倭国を代表していた。後漢の後ろ盾を得て、大陸との貿易で巨万の富を築いてきた。しかし、2世紀も終わりになると、後漢は衰亡し、三国志の時代へと突入することになる。これによって、それまで倭国を取りまとめていたイト国は、その後ろ盾を失うことになる。倭国のタガが外れてきた。

倭国の中の各クニが並び立つ状態。このような緊張感が高まった中で、各クニはどうしたかというと、連合政権をヤマトの地・纏向に作って解決したという。これが卑弥呼邪馬台国だ。筑備播讃らが中心で、中でもキビのクニが優位であったようだが、別にキビが他のクニを支配するというものでもない。前方後円墳が作られるのはこの時期からだが、それは、各クニを連合した新しい政治組織としての祭祀を、それまでの各種伝統をもとにして新しく作ったのだ。

中国の古文書をもとに、倭国の乱と言われたりするが、中国であったような、黄巾の乱が勃発し、諸豪族が乱立し、三国鼎立に至るような内乱があった様子は、考古学的にはないらしい。緊張関係はあったものの、大乱には至らず、連合政権を作ってまとまったようだ。中国側から見ると、倭国の中の各クニが並び立って、どれが倭国を代表して、中国と外交するのかわからない状態。これを乱ととらえたようだ

倭国全体を巻き込む大乱なしに連合政権を作ったとすると、これが後の朝鮮半島に対する外交的優位確立のもとになったのかもしれない。当然のことながら、内乱は国を弱くする。朝鮮半島では、高句麗やら百済やら新羅やらその他小都市国家やらが、半島統一へ向け戦争しまくった。やるかやられるかしかないようだ。そして、負けが込んできた国が倭に助けを求めるという形で同盟を結んだ。当然、倭の有利に外交が進む。救援出兵してやるから先進技術を教えろよ、などと。そして、記紀で属国扱いされるに至る。先進文明を持っていたにもかかわらず、こんなことになったのは、内乱が原因にちがいない。

邪馬台国を作るにあたって、色々軋轢があったかもしれない。それでも連合政権ができたということは、和の精神があったからかもしれない。とすると、和の精神は、聖徳太子よりさらに、邪馬台国にまでさかのぼれるということになる。聖徳太子が和の精神を説いたのかどうかは知らないが、和の精神とは、豪族同士が争って内乱になると朝鮮みたいに国として弱くなるからやめろという国家政治レベルの話かもしれん。崇仏廃仏の争いを経験してきた人だし。

欧米人を鼻差別 『ヨーロッパ人相学』

 

ヨーロッパ人相学―顔が語る西洋文化史

ヨーロッパ人相学―顔が語る西洋文化史

 

 

どんな人相がどんな人格なのか。アリストテレスから現代に至るまで、人相と人格の関係は、どのように理解されてきたのか。

こういった人相は、こういった人格。ゆえに犯罪者になる傾向が強いとか。人相と人格の結びつけは、容易に差別に結びついた。昨今、人相学が流行らない原因の一つらしい。

ユダヤ人差別も、人相という観点から捉える。

例えば、19世紀には進化論的色彩をもった人種差別があって、それは、進化論的に、アジア人は白人とちがって未発達で、猿・類人猿に近いというものであるが、白人であるユダヤ人も、退化して猿・類人猿に近いとされた。風刺画などで猿顔に描かれていたりする。

古くから、風刺画などに描かれるユダヤ人には定型があるらしい。ユダヤ帽、服につけたローテラという車輪型マーク、髭、鉤鼻、偏平足といったものだ。

中でも鼻は、感情表現力の強い器官で、一般に、強情、卑劣、強欲といった性向を表すという。鼻を誇張するだけで滑稽で野卑な印象を与えることができる。風刺画家は、鼻をデフォルメすることで、ユダヤ人の内面を描き出したという。確かに、鉤鼻は、魔女の鼻だったりする。

欧米では、正面顔だけの日本と違って、横顔が重視されるらしい。だから、鼻がより目立つ重要な部位となる。こういったこともあって、侮蔑するのに、鼻のデフォルメがなされやすくなる。

とすると、欧米人をデフォルメするとき、鼻には気をつけなければいけない。欧米人をデフォルメして高い鼻に描くと、不快に感じる欧米人がいるという。デフォルメ自体が不快感を与え得ることはおいといて、これには、欧米の鼻文化が影響しているのかもしれない。細かいこと言えば、高さよりも形が問題なのかもしれない。

高い鼻に憧れるだけの日本の鼻文化とちがって、欧米の鼻文化はより複雑なのかもしれない。

日本の鼻文化が本当に高いに憧れるだけなのかは知らない。

八紘一宇の原点 『大王から天皇へ』

 

大王から天皇へ 日本の歴史03 (講談社学術文庫)

大王から天皇へ 日本の歴史03 (講談社学術文庫)

 

 古墳時代に入って、5世紀末、ヤマトに変化があった。ヤマトの王は、中国の冊封を受けてきたが、そこから離脱し、治天下大王という称号を使うようになった。

治天下とは、天下(あめのした)を治めるということ。天下とは、大王の支配の及んでいる領域。それは異民族を包摂した世界。異民族に含められたのは、日本の東国の夷。あるいは九州の熊襲とか隼人。そして朝鮮。

治天下大王とは、ヤマトの大王は、こういった未開の異民族も含めた世界を統治しています、という理念、主張。これは、冊封体制から離脱し、中国と伍していこうという意志の表れだ。天下とは、冊封体制に対応するものである。要は、中国と対等の一流国だよといいたいのだ。倭国中華思想と筆者は言う。

これが可能になったのは、倭が安定して国力を蓄えたこと。騒乱の中にある朝鮮半島に対し日本が優位なポジションをとってきたこと。中国も南北分裂時代で、日本にあまりどうこう言えるような余裕もなかったことなど。

ということは、欧州型植民地帝国主義が真っ盛りのとき、それに伍していくため、近代化に邁進し国力を蓄えた日本が唱えた八紘一宇は、治天下大王に由来するに違いない。単に、中国・東南アジアを大王の治める領域に含めただけだ。冊封に対するのが治天下なら、帝国主義に対するのが八紘一宇だ。

現在、日本は米国の冊封下にある。しかし、近年、米国の衰えが指摘される。そうなると、日本は冊封から離脱するかもしれない。さらには中国との対立が深まる一方で、中国共産党の支配の不安定化もうわさされる。世界に伍してやっていくために、治天下大王の復活、21世紀型治天下大王があるかもしれない。

KARAは愛する文化 『大王から天皇へ』

 

大王から天皇へ 日本の歴史03 (講談社学術文庫)

大王から天皇へ 日本の歴史03 (講談社学術文庫)

 

 

本書は、4世紀から7世紀にかけての日本の歴史を描く。ヤマト朝廷は、5世紀末ごろには治天下大王という称号を使うようになり、7世紀の天武朝の時に天皇という称号を使い始め、現人神として確立する。

治天下大王がつかわれるのは、ヤマトが東国から九州などを含む地域豪族を従え、その統治を確固としたものにしたころ。ヤマトは、異民族を含めた天下を統治しているのですよという主張である。

このヤマトの力を確立させたのは、4世紀ごろからの朝鮮半島交易、そして、5世紀になる頃からやってきた渡来人の支配だ。ヤマトは、鉄を始め、朝鮮半島由来の物や技術を独占した。これを使って、各地域を従わせる、抜きんでた地位を得た。

この時期、朝鮮半島交易は、主に朝鮮半島の南端、加羅と行っていた。この時期の渡来人も加羅から来たという(「伽耶」と書かれたりもするが、ラとヤは古代朝鮮語では同じらしい)。加羅とは、朝鮮半島南部の地域を指すが、もともとはその中の一つの国、金官国のことで、そこは古くは狗邪韓国と言った。このクヤが転じて、カラになったという。

加羅は、対馬の対岸にあり、良い天気の時には見える距離にある。有史以前から交流があり、日本側にとっては、大切な異国、珍しい先進的な外国の文物が入ってくる窓口であった。

そういったイメージをもったカラという言葉は、やがて、韓(から)となって、朝鮮半島全体を表すようになり、唐(から)となって、中国を指すようになり、そして、からゆきさん、に見られるように、漠然と外国を指す言葉となる。

とすると、KARAが日本で人気が出たのは、その名と無関係ではない。KARAの響きは、その出身地、韓を超えて、魅惑的な異国、舶来の感覚を日本人に呼び起こしたからにちがいない。

よいとかよくないとかはややこしい

日本の植民地支配はよかった、というとボコボコにされるのか。

よいとかよくないとか言うには、その判定の基準点が必要だ。

例えば、他の西洋列強のやっていた植民地支配とか、あるいは道徳とか。
道徳にも色々あって、劣った民族に文明をもたらす義務がある、とする道徳Aもあれば、民族は自身で物事を決めるべし、とする道徳Bもあったりする。

なので、他の西洋列強のやっていた植民地支配よりはよく、道徳A的にはよく、道徳B的にはよくない、ということもありえる。

新しい安保制度案はよいのかだめなのか。現状を基準点とするのと、理想状態を基準点とするのとで、ことなる判定となるかもしれない。

日本の民主主義は、立憲主義は、言論の自由はどうか。

いずれにせよ、何を基準点としているのかで相互の理解がズレていると、会話はかみ合わない。

道徳Aは基準点とすべきでないとかいう問題は、また別の話。

パラサイトはどっちが悪いのか 『大国主の神話』

 

大国主の神話 出雲神話と弥生時代の祭り

大国主の神話 出雲神話と弥生時代の祭り

 

 本書は、大国主神少彦名神の謎に迫る。大国主とは、出雲の神様で、天孫が降りてくるまで、この国を治めていた神様。少彦名とは、穀物の神様で、大冝津比賣の死体から生えた五穀から神産巣日神がその種を作った時、その指の間からポロッと落ちた神様。

大国主は、地上を統治し、少彦名とコンビを組んで、農業はじめ国作りにまい進したのだが、もともと大国主はすこぶる弱いダメ神様だった。大国主の神話の半分は、か弱い大国主が、地上を統治するまでになる成長物語である。

大国主は、女神様にはすこぶるモテた。だから兄神たちに嫉妬され2度も殺された。殺されるたびに、母神の刺国若比賣が手を尽くし、生き返ることになる。2度殺されて生き返ると、母神は、もう殺されないようにと、紀国に大国主を逃がし、さらに、須佐之男がいる根の国に逃げることになった。そこで須佐之男の試練に耐え、成長し、須佐之男から地上を統治せよと言われるにいたる。地上に帰った大国主は、2度まで殺された兄神たちをいとも簡単にやっつけてしまった。

日本の文化的にポイントなのは、刺国若比賣であるらしい。2度も殺されてしまい、もう自分ではどうしようもない、大国主の成長に寄与できないと悟るや、紀国にやってしまった。これを機に大国主は成長し立派になったのだ。

西洋では全く違う。ユングの母殺しに象徴されるように、西洋では、母を殺して子は自立し、大人になる。殺さなければ、永遠に少年のままだ。しかし、大国主は母を殺さず成長した。日本に、母殺しという残酷なものはない。母が子を他所にやる。子離れして子を成長させる文化であるようだ。

西洋も日本も、子が成長するには母から離れないといけないというのはいっしょだ。成長しなければならないなら、両者がいっしょにいるのはよくない。パラサイトとかは、よくないことになるが、日本においては、おそらく子離れしない親の方が悪いにちがいない。

なぜ日本は日露戦争後ダメになったのか 『幕末史』

 

幕末史 ちくま新書

幕末史 ちくま新書

 

 攘夷とは何か。

幕末期、攘夷というタームは様々な意味で使われたという。
排外行動。つまり外国人を切り捨てたりするもの。そして、条約改正。当時、条約改正というタームはなかった。破約攘夷と言うらしい。これには戦争も辞さず、という強固派もいれば、戦争は避けるべしという穏健派まですべて含まれた。さらには、意識高揚運動。孝明天皇が攘夷を願って神社にお参りに行ったりしたが、このお参りも攘夷であった。

ということで、ひと口に攘夷というくくりでは、大雑把すぎる。天皇は条約改正を求めたが戦争は避けるべしという穏健派だった。戦争して排撃せよという人たちと区別して理解しないと、当時の政治的な対立状況がちゃんと把握できない。

この基本的理解をもとに、幕末から明治を、不平等条約を結ばざるを得なかったという屈辱からはじまり、西洋列強と伍していくために挙国一致体制の確立を目指す物語として描く。目的は、条約改正。

挙国一致体制を確立すべしというのは、長州も薩摩も幕府も同じだった。しかし、その中身をどのようなものにするかは人それぞれ異なり、最終的に、幕府の下に集まるでもなく、朝廷の下に集まるでもなく、新しい政府をつくることになったらしい。そして、新政府の下、廃藩置県して、中央集権体制を作り上げ、条約改正に向け、文明開化に突き進んでいくことになった。

とすると、日本は日露戦争が終わったら突然ダメになった、のだとしたら、日露戦争後に条約改正が達成され、幕末の屈辱以来の、挙国一致の日本の目的が達成されてしまったからに違いない。以降、日本は、目的がなくなり漂流し出した。挙国一致もなくなり、セクショナリズムでバラバラになって迷走し崩壊した。

そして崩壊後、再び屈辱から始まった戦後も、先進国としての地位を得て目的を失い、漂流を始め、再び崩壊し、そしてまた屈辱から始まることになる。日本は屈辱に依存している。屈辱を晴らすと崩壊する。屈辱とともに生きる。