差別的な意味合いを持つ言葉が差別語で、そういった差別語は使ってはならないとすると、「支那」はもともと差別語ではなかったから使っていい、ということはできない。
まず、「支那」は差別語ではない、とはいえない。
言葉の意味はいろいろ変わる。
最初はそうでなくとも、途中で差別的意味が加わったりする。
「部落」という言葉は、差別語ではなかった。
いつしか被差別部落を指すようになった。
「集落」とか「地区」という言葉への置き換えが進んでいる。
ちなみに、こうなった原因はなんだろう。
「特殊部落」が使えなくなったからだろうか。
だとすると、安易な言葉狩りに反対する論拠となろう。
ある言葉を使えなくしても、意味は別の言葉に乗り移るから無駄である、
ひいては、言葉とその意味の関係がガタガタになるかもしれないと。
では、「支那」は差別語にあたるのだろうか。
それは言葉の意味を決めるルールに依存する。
そのルールに照らして、「支那」には差別的意味合いが付加されていると判定されれば、差別語ということになる。
ところで、差別する意図がなければ使ってよい、といえるだろうか。
これはコミュニケーションの問題だ。
例えば、差別的意図なく使った言葉を、受け手が差別と解釈した場合、発信者が言葉の使用を誤ったのだろうか、それとも、受け手が誤解したのだろうか。
この判断は、コミュニケーションのルールに依存する。
「支那」という発言を受け手が差別と解釈した時、発信者の意図を誤解した受け手に問題ありとなるかもしれないし、差別と解釈するのももっともだけれども発信者の意図の方を重視すべきとなるかもしれないし、逆に、誤解であっても受け手の解釈を尊重すべきなのかもしれない。これはもうルールとケースに依る。