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正しく考えるというのは難しい

「自然」と「天然」をもっとうまく使いこなそう 『翻訳語成立事情』

翻訳語成立事情 (岩波新書 黄版 189)

翻訳語成立事情 (岩波新書 黄版 189)

 

本書は、翻訳語が織りなす悲喜劇を描く。「個人」、「社会」、「権利」など合計10の語を取り上げ、それらがどのように扱われてきたかを述べる。「自然」は、西洋語のネイチャー(nature、ドイツ語でNatur)の翻訳語として採用されたのだが、もちろん開国前から「自然」はあって、それを転用したものだ。そして、西洋語のネイチャーとは意味が少し違った。

 

森鴎外巌本善治の文学論争が描かれる。巌本が、文学とは自然のままに自然を写し得たものだと言ったら、鴎外は、文学には、『本草綱目』のように自然を写すものと、『純粋理性批判』のように精神を写すものがあるのだが?と返した。それに対して、いや、自然の精神というものがあって、、、と応酬が続いたという。

 

話がかみ合わないのだが、「自然」という言葉に込めた意味の違いがその原因だ。鴎外は、「自然」という語で、精神ではないもの、人工物ではないものを表している。これが、ネイチャーだ。例えば「自然科学」は、物体を研究対象とし、身体という物体までは扱うが、精神とか文化とかは扱わない。

 

対して、巌本は伝来の意味で「自然」を用いていた。精神を含むか否かというより、むしろ物を表すのではない。読み下せば「おのずからしかり」で、状態を表す。例えば「自然体」は、あるがままの状態とか、力みなくうまく調和した理想的な状態を表す。その反対は「不自然な体勢」だ。「自然科学」の反対は「不自然な科学」ではない。

 

かように「自然」はややこしい。「自然主義」は自然科学の手法を用いてやってみようということなのかもしれないが、ひょっとすると、力みなくうまく調和してやっていこうみたいな意味で使われているかもしれない。

 

この混乱を解決したいなら、「天然」を利用しよう。「天然資源」「天然記念物」のように、現代日本語での「天然」の使われ方は西洋語に近かろう。養殖でないのが「天然もの」だし、「自然体」とは言っても「天然体」とはいわない。「自然文明」はOKだとしても「天然文明」はちょっと無理だ。「天然」こそが、西洋由来の語にふさわしい。

 

人工でないもの、精神の対立物は、すべて「天然」に担わせれば誤解がなくなる。「自然科学」は「天然科学」へ。環境と調和するエネルギーは「自然エネルギー」、天然資源由来のエネルギーは「天然エネルギー」。環境との調和を目指す文明は「自然文明」。天然科学の手法を応用した文学は「天然主義文学」と。

 

ただ、色々な意味が混ざっているから趣が出るだとしたら、あまりカッチリ切り分けると「自然」に味がなくなるかもしれない。その辺が心配だ。