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ynkby's blog

正しく考えるというのは難しい

天皇は立法者ではなく現人神

アニミズムの濃い村をみると、村の慣習を変えることは内部者にはできない。

中国雲南省のワ族には、首狩りの慣習があった。それは別に人殺しが好きだったからやっていたわけではない。焼畑農耕の豊穣を祈るために、一年のうちある期間だけ行う農耕儀礼であった。狩った首を神聖な小屋の前に供えると、種が芽を吹き、苗が育つのだという。中国共産党の時代になった1949年に禁止され、78年を最後に止んだという。村人に聞くと、首狩りのない今の方が幸せだという。別に楽しいものでもないし。それでもやり続けていたということは、習慣を変えることは村人の誰にもできないということだ。というか、そのような発想がないのかもしれない。

天皇アニミズム世界の長みたいなものとすると、これと同じことになる。天皇がルールを変えるというようなことはしない。天皇が現人神だとしても同じだ。日本の神は、祟るか恩恵を与えるかぐらいしかしない。ちゃんと祭れば恵みがあるだろうし、そうしなければ祟りが起こる、というくらいだ。

対して、ユダヤ教とかでは、絶対神が戒律を出してくる。これには、村の慣習を変える力がある。そもそもこれらの宗教は、既存の信仰を覆すべく生み出されたものだ。古くからの因習・信仰を捨てろ、偶像なんか崇拝するな、俺を信じろ、というのがこれら宗教だ。(ちなみに、絶対神が出てこない仏教も、旧習を変え、戒律を出してくる点では同じだ。)

絶対戒律神のアナロジーで政治が行われるとき、その長は、ルールを変えることができる立法者として現れることになる。対して、天皇アニミズム的現人神であるとすれば、天皇は立法者ではないということである。別に戒律を宣って指導者になったりはしない。長だから立法するに違いないというのは大間違いだ。ちゃんと祭れば恵みがあるだろうし、そうしなければ祟りが起こる、というくらいだろう。

 

21世紀 日本像の哲学 アニミズム系文化と近代文明の融合

21世紀 日本像の哲学 アニミズム系文化と近代文明の融合

 

 

天皇の戦争責任論の意味


日本は、経済発展した今でもアニミズムが生き残っている。日本の信仰として生きている神道が、それを体現している。精霊・神々が存在し、霊能者シャーマンが活躍する、アニミズム的神話世界を継承している。

普通、アニミズム段階にある世界は、近代主権国家を形成するには至らない。日本も、大きな国家となっていくうえで、いろいろ変わっており、原初的な形でアニミズムを残しているわけではない。

では、より純粋なアニミズムはどんなものか。

アニミズムの世界では、村長と村は同体である。村長が死ねば村も死んだとみなされる。そして、新しい場所に移って再び村が作られることになる。昔の天皇も、代替わりのたびに新しい場所に宮をこしらえてきた。アニミズムの伝統である。代が替わっても動かなくなるのは、藤原京とかが建設されてからだ。

あるいは、長が弱って来たら早めに殺して元気な後継者に継がすことが行われたりもする。村長と村が同体であるなら、村長の健康状態と、村の健康状態は連動する。

また、シャーマンは、自然災害とか五穀が実らなかったりとかかがあると、殺されることがある。災いを防げなかったら、怠慢としてその責任を取らされる。

とすると、昭和天皇の敗戦時の退位論は、アニミズムにちがいない。

天皇は、アニミズム的世界を体現する神話を基礎にした存在で、神の子孫であり、五穀豊穣を後に先に祝うシャーマニック伝統を受け継ぎ、村長と同様の、国長であるとすると、戦争による国の崩壊は、国長として天皇の力の欠乏を示すもので、国を立て直すには早急な新しい国長の擁立が急務ということになる。アニミズム的発想からは、ごく自然なことで、敗戦、あるいは不幸を与えたことに対して、責任を取らせるということである。

ただ実際には、昭和天皇が退位することはなかった。これは、日本が純アニミズムの世界ではなかったことを意味している。当時すでに近代化を進めた立憲君主国だったのであり、法的には天皇に責任はなかった。アニミズム的原理のみによっては動かない状況にあったのだ。

とはいうものの、退位論がその後すぐに力をなくしてしまった原因はというと、これはアニミズムだ。日本のその後の復興、高度成長による繁栄の道を歩み始めたのであり、うまくいっている時に国長をどうこうする意味はないからである。別に立憲制とかは関係ない。

そして、天皇戦争責任論は、今もくすぶり続けている。天皇に法的責任はなくともアニミズム的責任はあったのだ。それが、その後の発展でうやむやになってしまっただけなのである。


、これは、アニミズム的発想からは、天皇の敗戦責任は、ごく自然なことと言える。
これは、やはり日本にアニミズム国家であることを示してる。

 

 

ヤマト少数民族文化論 (あじあブックス)

ヤマト少数民族文化論 (あじあブックス)

 

 

 

なぜトックはもちもちしていないのか

 

 

照葉樹林文化ではないからだ。

日本の文化、食文化を語るうえで、照葉樹林文化は外せない。

照葉樹林文化とは、中国西南部中心に、アッサム地方から東南アジア北方、中国南部の照葉樹林帯の文化で、日本には縄文時代の後半、6000年くらい前の西日本に広まったらしい。

これらの地域に共通する一つの大きな特徴は、ねばねば、もちもちの食べ物を好むということだ。米で言うならもち米だ。これに対して、中国北部とかインドとかは、もちもち系は好まれない。パサパサ系だ。

もちろん、米が作物の主流になったのは、もっと後の時代だ。では、米以前に、もちもちはなかったのかというと、そうではない。粟のもちもちを食べていたらしい。照葉樹林文化は、もともと山で焼畑をやっていて、そこで粟などの雑穀を栽培していた。そして、この粟も、もちもち系の品種を栽培していたという。

米も粟も、普通、もち系にはならない。照葉樹林の人は、よりもちもちになるものを選んで、作り続け、品種として確立させたにちがいない。このもちもちへのこだわりはどこから来たのか。

照葉樹林文化の特徴としてイモの重視があげられる。正月の雑煮にサトイモを入れるところがあるが、照葉樹林文化では焼畑以前の段階からイモを食していた。そのイモを調理する段階で、ねばねばになったりする。ここら辺から形成され、続いてきた嗜好なのかもしれないということだ。

トックがねばねばでないのは、食の嗜好が異なるからにちがいない。朝鮮半島の南端は、かすめるように照葉樹林文化圏に入っている。加羅とか任那とかは照葉樹林文化だったのかもしれないが、小さすぎて朝鮮半島の主流にはならなかったのだろう。

ちなみに、今の日本ではどこでも、餅といえば、ねばねばもちもちだろうが、照葉樹林文化圏は、西日本までだ。東日本でも、ねばねばが常識になっているということは、西日本ヤマト政権の東進によって、文化が変わってしまったということにちがいない。朝鮮半島においても、日本領時代が続けば、トックもねばねばばかりになるにちがいない。東日本のように。

会議がながいわけ 『忘れられた日本人』

 

忘れられた日本人 (岩波文庫)

忘れられた日本人 (岩波文庫)

 

 

 

戦後に残された伝統日本をフィールドワーク。著者は、対馬とかを旅し、村々の人々と会話する。そこで観察された寄合。寄合とはどんなものか。

まず、皆が納得するまでやる。そして決まったら皆が守る。
村の集会所で集まり、何日でも話し合う。用事があったら帰ってよい。済ませてからまた参加する。飯を食いに帰るとか。弁当持参で来る者もいたという。食べながら話を続ける。夜になっても終わらないならそのままそこで寝て、また起きては話を続ける。難しい案件でも、だいたい三日で片付いたらしい。

進行はというと、侃々諤々とはやらない。理屈は言わない。そんなことすると収拾がつかなくなる。自分の体験とか、聞いた話とか、テーマに関係すると思われる出来事を話す。あの時はああなった、この時はこうなった。話に花が咲く。賛否の意見は、その話に含ませる形になる。あの時ああいうことをしたら、えらいことになってしまった、とか。

ひとしきり皆がしゃべると、別の話題に移っていく。が、しばらくすると、話が戻ってくる。そんなことをしながら少しずつ話が煮詰まっていく。冷却期間が重視される。賛否の意見が出ても、それへ応答はなく、しばらくそのままに放っておかれることになる。

最後は、長老が空気を読んで、そろそろ話を決めようとか言って、こうしてはどうだろうと皆に話しかける。そして、皆がそれで結構ですと同意して終了となる。多数決などない。

なお、昔の村なので、身分なり何なり色々あったわけだが、寄合での発言は互角に扱われる。

村共同体で、毎日顔をあわしても気まずくないようにするによいやり方である。一生をその村で過ごすわけだから、村人同士の関係の悪化は、重大問題である。

とすると、日本の会社の会議が長いのは、寄合文化だからに違いない。一生を過ごす会社において、毎日顔を合わせてもに気まずくないよう、遠まわしな言い方をし、賛否の意見が出たら、冷却期間を置くのである。

しかし、会社というのは、市場競争下に置かれた利益追求体で、その目的に向かって迅速に意思決定し、業務命令の下、まとまった行動をとらなければならない。上司もいれば部下もいる。ここに会社村の会議のジレンマがある。

政治家は政策を勉強すべきなのか

 

小泉純一郎 ポピュリズムの研究―その戦略と手法

小泉純一郎 ポピュリズムの研究―その戦略と手法

 

 

政治家は政策を勉強すべきなのか。
良い政策を実現するのが政治家の仕事だとすれば、政策を勉強するのは当然かもしれない。政策を勉強しなければ、何が良い政策か判断できないから。
しかし、政策を実現できなければ、いくら政策を勉強しても意味がない。

政策内容の理解力と、政策の実現能力は別の能力だ。
そして、この二つは両立しないにちがいない。

このことをよく理解しているのは、郵政省をぶっ壊すの合言葉の下に、郵政族その他の強力な反対を押し切って郵政民営化を成し遂げ、圧倒的な政策実現能力を見せつけた小泉純一郎だ。

政治家は、メッセージが弱くなるから、勉強すべきでないし、議論すべきでもない、直感でいく方がいいというのが小泉の持論であった。

確かに、道路公団民営化の時に小泉とかかわった田中昭一は、小泉は委員会の議論を理解していないし、関心も持っていない、「分かった」を連発するが、分かってはいないと批判している。

小沢一郎も、小泉とは議論が成り立たない、何を質問しているかを正確に理解できていないし、理解しようともしていない、と国会の代表質問で批判している。

勉強しないから、メッセージが強くなった。ひいては郵政民営化につながったのだ。

他方、橋下知事が、都構想で敗北したのは、都構想の内容に関わりすぎ、メッセージを弱くしてしまったからにちがいない。住民投票というメッセージの強さが一番必要とされるところで、都構想の内容を説明させろとばかり言っていた。弁護士だけに小泉のようにあほになれなかったのかもしれない。

政治家は、政策内容か、実現力かのジレンマに立たされている。

「強敵」と書いて「とも」と読む文化

政敵を追い落とすと、祟りを食らうことがある。非業の死を遂げ、祟りを引き起こす魂を、平安時代あたりから怨霊と呼ぶようになった。

祟る怨霊をどうするか。名誉回復とか、お経の書写とかして、鎮魂する。菅原道真は怨霊となって、自分を大宰府に追いやった政敵を雷で撃ち殺し、世の中に災厄をもたらしたが、北野天満宮が作られたりして、ことは収まった。

道真の場合は人事の問題だが、時に政争は戦争に至る。こうなると、たくさんの人が死ぬ。そうすると、戦没者をまとめて鎮魂するようになる。そして、敵味方供養の歴史が形作られる。怨親平等の思想とか言われたりする。

称徳天皇は、藤原仲麻呂の乱の後、戦死者すべてを等しく供養するということをやっている。朱雀上皇は、将門や純友の乱の戦没者供養を行っている。源頼朝は、源平の戦乱の死者に対する鎮魂を行っている。

怨に対して、怨ではなく徳で報いれば、怨は消えるとか、あるいは、怨を転じて親となすことができる、とかいって鎮魂していた。

北条時宗は、元寇後の鎮魂に、「怨親悉平等」という言葉を使った。怨親平等とは、元々仏教語だが、転じて、敵も味方ももともと平等だから、平等に愛憐する心を持つべきだ、敵味方一視同仁、という意味だ。この辺からは、祟りや怨霊が怖いといった面より、供養、成仏、あるいは博愛主義的な様相が強くなっているようにみえる。

時代は下って、平和な江戸時代には、敵味方供養は姿を消す。が、明治に入り復活する。しかも、江戸時代に醸成された武士道の影響から、敵への敬意が加味されていた。

日露戦争後、旅順に戦没者慰霊の塔が建てられ慰霊祭が行われた。そこには、戦時中は仇敵だったが、戦後は友邦者となったのであり、ロシア人も国のための忠義を尽くした英霊であるのだから、ちゃんと弔わなければならないという思いがある。

「強敵」と書いて「とも」と読むのは、この流れにある。

「強敵」を「とも」と呼ぶ。そこには鎮魂がある。

 

 山田雄司怨霊とは何か - 菅原道真・平将門・崇徳院 (中公新書)

 藤田大誠「近代日本における「怨親平等」観の系譜

 

 

日本が清潔な理由、京野菜がブランド化した理由

 

京都〈千年の都〉の歴史 (岩波新書)

京都〈千年の都〉の歴史 (岩波新書)

 

 日本が清潔なのは、16世紀に人糞肥料ビジネスシステムが確立したからだ。

人糞肥料ビジネスシステムが確立したのは、日本が人糞肥料文化だからだ。
日本が人糞肥料文化になったのは、豚がいなかったからだ。

人糞肥料ビジネスシステムによって日本が清潔になったのは、人糞の商品化へ向けた設備投資により、汲み取り式便所が普及したからだ。
人糞の商品化が試みられたのは、農業の発展に伴い、肥料需要が高まったからだ。
汲み取り式便所が作られたのは、人糞を、不純物のない形で一か所に集め、売ることができるからだ。
日本が清潔になったのは、汲み取り式便所の普及により、それまでの街角排便の習慣がなくなったからだ。

京野菜がブランド化したのは、京野菜がうまかったからだ。
京野菜がうまかったのは、汲み取り式便所型近郊農業が確立したからだ。
京野菜がうまかったのは、京都近郊なので、質のよい人糞肥料が手に入ったからだ。
京野菜の人糞肥料の質がよかったのは、京都から供給される人糞の質がよかったからだ。
京都の人糞の質がよかったのは、京都には美食者が多かったからだ。
美食者の人糞がよいのは、人糞の質は、その供給者の食べている物で決まるからだ。つまり、美食者の糞からの方が、粗食者の糞からよりも、よい人糞肥料ができるからだ。

日本が清潔で、京野菜がブランド化したのは、人糞肥料ビジネスシステムが確立し汲み取り式便所が普及したからだ。