ynkby's blog

正しく考えるというのは難しい

どれだけ穢れがきらいなのか 『古事記』

 

新版 古事記 現代語訳付き (角川ソフィア文庫)

新版 古事記 現代語訳付き (角川ソフィア文庫)

 

 

神さまが活躍する古事記には、古き日本の文化が描かれているのかもしれない。そして、一定程度は、現代にも受け継がれているのかもしれない。

古事記神話の見どころの一つは、神さまのエキセントリックな豹変ぶりだ。

伊邪那岐は、最愛の妻である伊邪那美が死んだとき、慟哭し、黄泉の世界にまでいって連れ戻そうとした。にもかかわらず、死んだ伊邪那美に蛆がわいているのを見ると、一目散に逃げ出し、とんでもなく穢れたところに行ってしまったと言って、禊祓をし始める。当然のことながら、伊邪那美とは大げんかしたうえ絶縁してしまう。最愛の妻ではなかったのか。

あるいは、阿遅志貴高日子根は、死んだ親友の天若日子を弔いに葬式に行ったのだが、姿容が天若日子とそっくりだったので、天若日子の父親に、息子は死んじゃいなかった!と間違れてしまう。穢れた死人と間違うとはどういうことだと激怒し、天若日子の喪屋を剣で破壊し、蹴飛ばして、飛び去ってしまった。親友ではなかったのか。

それぐらい穢れが嫌いということだ。それが日本の文化だ。

社会契約は現人神 『日本の神々』

 

日本の神々 (中公新書 (372))

日本の神々 (中公新書 (372))

 

 古事記とか日本書紀には神話が描かれている。そういった書物に描かれている神話は、その書物を作った者の操作が入っていて、もともとの形とはちがったものになっている。神話学とは、古事記なんかに描かれている神話の原型を追及するとともに、それがどのように展開して古事記に描かれるような話になっていったかを考える。

例えば、イザナギイザナミは、淡路地方のローカルな神様だったのが、古墳時代の難波朝期に中央と淡路の人との交流が増えて、中央の人にも知られるようになり、そこから、もともと淡路島を生んだ程度だった国生みが日本の本州も四国も九州も生むようになり、そして、皇祖神アマテラスの神話が作られていく過程で、アマテラスの親という設定になったという。

八俣大蛇も、もともとは、出雲あたりの竜蛇・水の神様で、酒を供えて祭り、斎女が結婚したりしていた文化があったのが、東方の紀伊の辺りからスサノオ神話を携えてやってきた鉄の刀剣文化によって、蛇神様は邪神とされ、斬られることになり、その剣が草薙の剣となったという。

かくいう神話というのは、超自然的な霊的存在の昔の行いによって現在があるとされ、その内容は真実と信じられ、絶対的な規範となるものらしい。「信仰的事実」として社会で機能したという。

ということは、現人神も社会契約も人権も神話ないし信仰的事実だ。社会契約を結んだ歴史的事実はない。社会契約の契約書を持っている人はいない。しかし、社会契約をあからさまに批判するような感じはない。あんまり社会契約をフィクションだとかいうと、茶化すなとかいって怒られそうだ。事実ではないことはみんな知ってるが、あんまりそういうことはごちゃごちゃ言ってはいけないのだ。

同じように現人神のこともごちゃごちゃ言ってはいけないのだ。神でないことは百も承知だが、あんまりそういうことはごちゃごちゃ言うものではなかったのだ。社会契約がフィクションだとか言うと怒る人は、現人神をフィクションだとか言うと怒っていただろう。

 

理解が妨げるもの

宗教学者が鸚鵡真理教を理解したいと言ったら、理解したいとは何事か!と非難されたとすると、理解の意味に齟齬が生じているのかもしれない。

理解には、単に知る、ということだけでなく、共感するとか賛同するとかいう意味合いまで含まれる。鸚鵡真理教を理解したいと言ったとき、鸚鵡真理教の教義に賛同する、共感すると言っていると受け取られることになる。A氏が、親父なんか死ねばいい、と言ったのを聞いたBさんが、おまえの言うことは理解できん、と返したとき、Bは、Aに共感できない、賛同できないと言っているのだ。

しかし、機械を分解して内部構造を調べどのように動くのか分かった時、仕組みを解明した時にも、機械を理解したという。ここには機械に対する共感も賛同もない。比喩的にはともかく。鸚鵡真理教を理解したいというのは、その中身を解明したいということかもしれない。

理解は情緒的に使われる。敵を知り己を知れば百勝できるのかもしれないが、敵を理解すると裏切り者になる。知るを使わず理解を使う者は、情緒を排し冷徹に物事を分析して知る、ということができない。

理解は冷徹な分析を妨げる。解明するとか、知ると言わねばならない。

職業に貴賤はあるか

まず、あるなしという事実の話なのか、あるべきか否かの話なのか。

「べし」の話なら、価値観の話。

事実の話だとすると、貴賤とはなにか。
人の感覚の問題で、ある人が何かを想起した時に、貴の感覚が生じるものがその人にとって貴であり、賤の感覚が生じるものがその人にとって賤であるなら、ある職業を想起した時に、貴の感覚が生じるなら、その職業はその人にとって貴であり、賤の感覚が生じるならその人にとって賤である。

貴の感覚が生じる職業しかない場合、その人にとって職業は貴である。
賤の感覚が生じる職業しかない場合、その人にとって職業は賤である。
貴の感覚も賤の感覚も生じない職業しかない場合、その人にとって職業に貴も賤もない。
貴の感覚が生じる職業と、賤の感覚が生じる職業の二種があれば、その人にとって職業に貴賤はある。

人間には共感能力といえるものがあり、この能力によって、何かを想起した時に生じる感覚が、複数人の間で同じになるなら、あるいは、人間はDNA的に生じる感覚が同じになるなら、ある職業を想起した時に、貴の感覚が生じるな否か、賤の感覚が生じるか否かは、複数人の間で同じになる。したがって、職業と貴賤の関係は、その複数人の間で同じになる。この複数人によって、社会といわれるものが構成されているとき、職業と貴賤の関係は社会的に決まる。

象徴天皇制はいつできたのか 『神々の体系』

 

神々の体系 ──深層文化の試掘 中公新書

神々の体系 ──深層文化の試掘 中公新書

 

 

古事記天皇家権威向上目的の書としてみるのが津田左右吉だが、そうではなく藤原氏権威向上目的なんじゃないか、という書。

というのも、古事記ができたのは元明天皇の時だが、元明藤原不比等の傀儡だったし、平安時代に栄華を極めた藤原氏もこの時代は駆け出しの頃だったからだ。物部氏など伝統ある大豪族のいるなか、藤原氏には大きな顔ができるだけの歴史がない。藤原氏の出身母体である中臣氏は、しがない中小豪族でしかない。不比等は、藤原氏の権威を高めるためのものを必要としていたのだ。

権威付けのために歴史が利用される。歴史書にちょっと中臣氏の祖先を書き込めばいい。よき由緒が手に入る。不比等古事記日本書紀に手を出す理由はあるのだ。同じ新興豪族だった蘇我氏はそれをやったらしい。

しかし、そもそも大化の改新とか律令制で天皇がリーダーシップをとって政治をしてたというイメージが間違いなのだという。天皇の力は、5世紀の倭の五王の時代が一番強く、継体天皇以降は弱いのだ。

確かに、継体天皇は、傀儡だったにちがいない。継体天皇は、武烈天皇に後継ぎがなく天皇がいなくなった後、大伴金村が遠くから連れてきた天皇だ。なんのために連れてきたのか。天皇ブランドを利用して、他の豪族とは一線を画す権威を得ようとしたからにちがいない。継体天皇から、天皇は、豪族を権威づける道具になったのだ。

こうして、天皇と諸豪族のゲームが始まる。豪族は天皇をゲットして権威強化を図る。天皇も、自信の力の伸長を図る。新興豪族である蘇我氏天皇と結びつき、物部氏ら伝統豪族と伍していく力をつける。天皇は、蘇我氏と結びついて、旧豪族のコントロール下から脱却する。あるいは、中臣鎌足と結びついて蘇我氏の傀儡という立場からの脱却を図り、中臣氏は天皇と結びつくことで格を上げていく。

この流れは以降も続く。藤原氏の傀儡になった後も、徳川に至るまで、天皇は新興勢力の権威づけに使われ続ける。そして、薩長政府の傀儡となり、長州・山形有朋の作った官僚機構の傀儡となって現在に至っている。このゲームは、大伴金村に始まるといっても過言ではないにちがいない。

レクサスは本気  『2014年版間違いだらけのクルマ選び』

 

2014年版間違いだらけのクルマ選び

2014年版間違いだらけのクルマ選び

 

 昨今の注目現象は、自動運転の技術が進んでるとか、世界レベルでダウンサイジングの流れが進んでいてベンツとかの高級車が大衆車サイズのクラスでひしめき合っているとか、日本では軽自動車競争がますます熱くなっているとかいったところ。

スズキとダイハツが燃費競争を繰り広げているなかで、ホンダがNシリーズで軽市場で存在感を発揮し始めた。マツダも昨今気合の入ったクルマを出し続けており高評価を得ている。日産は、高級車でいいものも作っているが全般に不振、小さいクルマに至っては低評価となっている。

トヨタは、クラウンとかカローラなどぼろかすの評価。しかし一転、レクサスは、いいクルマになったとべた褒め。これはなんなのか。

今の時期に出てくるクルマは、開発していた時期がリーマンショックと重なり、その影響を受けている。トヨタもリーマンで赤字を出して、F1を撤退している。開発費も削られたにちがいない。クラウンとかカローラの酷評は、金がなかったことが大きな原因であろう。しかし、にもかかわらずレクサスの評価は高い。ということは、単に金がないということではなく、たぶんレクサスに優先的に金を回したにちがいない。クラウンなら開発費ゼロでも売ってみせるという、ブランド力、販売力の自信の現れである。ちょろいもんだと思っているのかもしれない。

ともあれ、どうやらレクサスは本気のようだ。F1は撤退したけど。じきヨーロッパの高級車を超すだろう。

豚なき世界 『古事記の起源』

 

古事記の起源―新しい古代像をもとめて (中公新書)

古事記の起源―新しい古代像をもとめて (中公新書)

 

 

中国では、猪年ではなく豚年である。
十二支の本家は中国だから、日本に伝わってから猪に変化したのだろう。

なぜ日本では猪なのか。
それは日本に豚がいなかったから。
今の日本の豚は、文明開化後に欧州から来たものだ。

実は日本にも豚はいたらしい。弥生期の豚の骨が見つかっている。しかし、弥生後期にはいなくなってしまっていたようだ。

農業が発達していき人口が増えていった一方、豚なき世界になった日本では人糞が注目されることになった。豚がいれば人糞は豚が食うことになる。豚なき世界では人糞は処理されず、溜まっていくことになる。そこで一大技術革新が起こった。人糞肥料だ。人糞を肥料に利用するのは、結構、日本独自のものらしい。これは長年日本で続いたエコサイクルである。

こうして大宜都比賣神話ができた。大宜都比賣は、おいしい料理を作ってもてなす、おもてなしの女神だ。大宜都比賣神話とは、大宜都比賣が、須佐之男をおもてなししようと、鼻と口と尻からおいしい食べ物を出して料理していたら、穢いと殺されてしまい、その死体から五穀が生えてきた、というものだ。殺された死体から五穀が生じるこの神話は、ハイヌウェレ型神話として類型化されている。ハイヌウェレとはインドネシアの神様で、これも殺されて食物が生まれる。しかし、大宜都比賣のように、尻から食べ物が出てくるのは、日本独自のものだという。人糞肥料文化の賜物だ。

大宜都比賣は、おいしい料理を作ってもてなす、おもてなしの女神だ。技術革新、エコ、和食、おもてなし。どこから見ても、大宜都比賣こそクールジャパンの女神にふさわしい。